「小林秀雄-そのベルグソン体験の展開-」, 『國學院雑誌』, 第87巻第2号, 21, 31, 1986年02月01日, 國學院大學, 「様々なる意匠」における小林の批評理論を,当時,特に大正期に広く読まれた近代フランス哲学者アンリ・ベルグソンの諸論によって刺激を受けたものと仮定し,哲学的思考及び認識論を文学理論として積極的な読み換えが行われた点を実証した。結論としては,ベルグソンの「形而上学入門」からの引用といってもよいほどの一節が指摘でき,そこに動体そのものに関する認識の方法の影響が深層部において認められるということである。
「影響と伝達-文学論を制約する二つの言語観-」, 『國學院雑誌』, 第88巻第4号, 38, 50, 1987年04月01日, 國學院大學, ソシュール『一般言語学講義』に代表されるラング中心主義が、言語道具観を背景とした文学観を導き出すのに対して、時枝誠記「言語過程説」が捉える、行為論上の言語観が提出したコミュニケーションモデルをもとに想定される「文学は言語である」という認識を、「言語芸術」として対象化されがちな文学観への批判として検討した。
「意識と言葉-「Xへの手紙」までの小林秀雄」, 『國學院大學大学院紀要-文学研究科-』, 第19輯, 165, 181, 1988年03月01日, 國學院大學大学院文学研究科, 小林秀雄の批評の自立について「Xへの手紙」(昭和7年)を指摘するのは,奇異なこととされるかもしれないが,小説作品の習作を書き続けながら,一方で評論も公にしていた小林が,小説家から批評家へ〈書くこと〉の中で自らを打ち立てた作品としての重要な意味を指摘しようとした論考である。特に「意識」の問題,「言葉」の問題を批評理論としてだけでなく,小説のテーマともしてきた小林の文体上の克服という面を「Xへの手紙」に考察した。
「小林秀雄の方法」, 『國學院大學大学院紀要-文学研究科-』, 第21輯, 226, 244, 1990年03月01日, 國學院大學大学院文学研究科, 小林秀雄の身体面の形成について重要な役割を果たした2人,青山二郎において骨董,焼き物への眼,いじり方を,そして深田久弥において日本の山々の歩き方,その美の体験を,それぞれ学んだ小林の経験が,この2人の影響から脱し,次第に小林の骨董,小林の山が見えてくる過程を考察した。そして『本居宣長』という最後の作品において,小林が身体的に習練した方法を意識的に応用したふしが指摘できる点を検討した。
「輻湊する〈読み〉の中で〈文学〉を定位するもの」, 『國學院雑誌』, 第92巻第1号, 533, 546, 1991年01月01日, 國學院大學, 現代文学理論の上に展開された言語論、記号論が提出する文学像、いわゆる「テクスト論」が開いてみせた、作品・作家の一歩手前にある〈読み〉としての文学像の成立事情を検討した上で、「意味」について沈黙し続けてきた従来の言語論への批判モデルとして丸山圭三郎の言語論を考察し、意味生成の〈非任意性〉を、文学認識論の基底として検討した。
「「伊豆の踊子」その〈風景〉の発見と〈旅〉の造形-「山越えの間道」の調査から-」, 『川端文学への視界』, 46, 72, 1993年06月01日, 川端康成の「伊豆の踊子」の原体験とされる大正7年の伊豆旅行については,かなりの細部に渡って実証検討されてきたが,未調査であった湯ヶ野から下田街道をはずれていく「山越えの間道」の実地踏査報告と,その調査で明らかになった下田街道から大島が見える地点の実証から,原体験としての「伊豆の踊子」の旅では大島は見えていなかった点が指摘できた。その結果「伊豆の踊子」の虚実の問題が明らかになり,その読解の方法に新たな視点を提出した。
「「伊豆の踊子」の視角-〈旅〉が隠蔽する〈私〉-」, 『國學院雑誌』, 第95巻第5号, 71, 86, 1994年05月01日, 國學院大學, 「伊豆の踊子」の複雑な成立事情を考え,また伊豆旅行(大正7年 川端ー高生の時)を精密に調査すると下田街道を歩きつつ成立した物語という読みが不十分であることが明らかになってくる。そこで〈旅〉という物語の形成方向を断念し,語る〈私〉と語られる〈私〉との交錯する文体に注目すると,ー高生〈私〉の青春物語ではなく,新たな文体を模索していた川端康成の実験的ともいえる表現,文体上の特徴が浮上してくる点を考察した。
「読者を収奪する言語装置-川端康成「有難う」の〈省略〉-」, 『長谷川泉ゼミナール論文集』, 42, 48, 1994年10月01日, 川端康成のいわゆる「掌の小説」には、小説文体への新たな問題提起があったという視点から、短編「有難う」を事例として、反復表現にその特色を捉えてきた従来の立場を批判検討した。結論としては、〈省略〉、〈中断〉というレトリックの読書論上の効果を指摘した。
「読まれる〈私〉の生成-作品・日記・作家-」, 『日本文学論究』, 第55冊, 2, 10, 1996年03月01日, 國學院大學國文學會, 作家研究における虚実の問題の解明資料として扱われてきた作家の日記について、読書行為論上の立場から考察した。虚実をないまぜになって受容され、いわば小説のように読まれる日記の機能を、書かれる〈私〉が、読まれる〈私〉として虚構化され、そこに文学としての機能を帯びてしまう点を論じた。
「〈体温〉を希求する「雪國」-溶解されるハーフミラー-」, 『国文学 解釈と鑑賞』別冊『雪國』60周年, 166, 170, 1998年03月01日, 至文堂, 「雪國」における視覚像の美が「夕景色の鏡」を特権化して論じられてきた研究史を批判検討した。視点人物であり、時に語り手でもある島村に焦点を当ててきたこれまでの読みに対し、島村の視覚に揺らぎを与え、遠近感の不安定を導いたのは駒子の〈体温〉であり、身体的な接触である点を考察した。
「現在を喚起する文体-堀辰雄「不器用な天使」論-」, 『國學院雑誌』, 第99巻第10号, 44, 57, 1998年10月01日, 國學院大學, 習作としての評価が通例となっていた堀辰雄「不器用な天使」の作品論を試みた。ジャン・コクトー『大胯びらき』や、同時代の映像表現の影響などが指摘されていただけの先行論に対して、現在終止形の文末表現の効果と心理描写との密接な関係、また同時に「~た」文末との使い分けの分析から、時間を記述する特殊な方法を論じた。
「物語の失速/小説の挫折◎「伊豆の踊子」再論」, 『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論へ〉2』, 144, 158, 1999年02月01日, 右文書院, 〈語る私〉と〈語られる私〉との分離を前提にして「私」の自己言及箇所を検証しつつ、〈語り手〉によって語られる現在から造形されているはずの「私」の人物像を形成してゆこうとする読み、物語の一貫性を要請しようとする読みは、作中の「私」に関する記述自体によって崩壊してしまうことを論じ、〈読者〉という項目を導入する必要性を提起した。
「掌の小説」その課題と展開-「お信地蔵」・「神います」を事例として-」, 『川端文学の世界1 その生成』, 85, 107, 1999年03月01日, 勉誠出版, 川端康成「掌の小説」の研究史を紹介、そして批判的に検討した上で、従来の問題提起の意義と価値についてまとめ、さらに今後の研究課題と考えられる幾つかの問題点を指摘した。その上で作品論の試みとして、「お信地蔵」・「神います」の2作品の分析し、テクストとしての姿を鋭く突き付けてくる「掌の小説」の本質を提示した。
「共振と共食-宮澤賢治「雪渡り」の歌声-」, 『文学の力×教材の力』5, 48, 62, 2001年03月01日, 教育出版, 宮澤賢治「雪渡り」を単なる児童文学、童話としてではない、人獣交歓の物語という文脈において再確認した上で、「狐」と「人間」(大人と子供)との支配、被支配関係の相対化をはかる作品である可能性を探った論考である。分析のキーワードとして「歌声」、「舞踏」、「共食」という身体性に視点をおき分析したものである。
「展開可能性としての男と女-川端康成「男と女と荷車」論-」, 『論集 川端康成-掌の小説』, 39, 46, 2001年03月01日, おうふう, 川端康成「男と女と荷車」の初出形態と初刊形態の本文の差異、その大幅な削除訂正部分のはらむ問題を整理したうえで、現行本文の特質である「語り手」の視点と視線が、揺れ動きつつ進行していく状態を分析した論考である。物語的な叙述の合間を縫うように前景化される描写の文体に意義を見いだそうと試みたものである。
「文学研究の記述行為論へ」, 『國學院雑誌』, 第104巻第8号, 1, 11, 2003年08月01日, 國學院大學, 日本近現代文学研究における研究文体の分析を試みたものである。文学作品として支持され、定位しているかに見える実体としての作品概念そのものは、読者による主体的な読書行為の過程において浮上してくるイメージの強度とも言い換えられる。そうした読書行為論あるいはテクスト論が前提とした作品概念に、さらに能動的な、記述行為が関与しているのではないかということを解明する理論的な根拠を模索した考察である。
「作品とは何か-川端康成「心中」研究の記述行為論-」, 『國學院大學紀要』, 第42巻, 1, 21, 2004年02月01日, 國學院大學, 読書行為論やテクスト論に基づいた作品概念と作品研究方法とが導き出した研究言説が、当初の目的としていたはずの成果出あるテクスト概念の構築から、実体としてのテクストとそれへのメタ言説構築へと傾いてしまった要因を考察し、そこに記述行為という実際上の制約が大きく関与している点を分析しようとしたものである。具体的には、川端康成「心中」研究史を例にとり、先行研究言説がどのように作品を記述しているか、どのような作品像が提出されてきたのかに焦点を当てて、研究言説の記述自体が作品を生産していく過程を論じたものである。
「小林秀雄『感想』と宣長論の交錯-昭和三十五年の記述を考える-」, 『國學院雑誌』, 第105巻第11号, 450, 461, 2004年11月01日, 國學院大學, 小林秀雄『本居宣長』の評価を巡ってはいまだに賛否両論が拮抗し、容易に決着を付けがたいものがある。現在多様な研究方法と視点とが試みられてきてはいるが、最も大きな問題として、『本居宣長』の前作であり、未完に終わった「感想」をどうとらえるか、特に『本居宣長』との連続を考えられるかという難問がある。本稿は雑誌初出時点での「感想」と同時並行的に書かれている宣長論に注目し、それらの記述のあり方を比較考察しようと試みたものである。
「折口信夫『死者の書』の〈近代〉」, 『日本近代と折口民俗学形成過程の研究』, 77, 86, 2005年03月31日, 平成14~16年度科学研究費補助金成果報告書, 折口信夫の創作小説としての『死者の書』は近現代小説としては不遇な作品であり、堀辰雄以外には評価する読者もないままであった。しかし、近年は折口信夫の全体像を検討しようという傾向もあり、小説としての評価が期待されても来ている。そこで、本論では、歴史の転換期を描こうとするこの小説に、伝承的な口頭言語から書字言語への移行期にあった人物達の思想のありかたを描くものという視点からの読解を試みた。
「〈読み〉の時空を記述すること-読書行為論の再検討-」, 『國學院雑誌』, 第106巻第3号, 1, 12, 2005年03月09日, 國學院大學, 読書行為の能動性、生産性は理論的には認知されてきたが、まだその受動性をそのままに対象化させてしまう研究言説への批判は十分とは言い難い。そこで本論では、読書行為を研究の前提として研究理論構成をしつつある田中実氏の論点に再検討を加え、読み手によって恣意的に現象する〈本文〉へ実体性と根拠を付与する〈原文〉という概念の有効性とその限界について検討をしたものである。
川端文学の言語観-言語不信が要請する言語依存-, 『川端文学の世界5その思想』, 74, 82, 1999年05月10日, 川端文学における思想を論じるにはまずその言語観の固有性を分析すべきであるという視点から、特に顕著なこととして比喩表現の多用に注目した。新感覚派以来の表現技巧として、的確な表現をことさらに避けた結果という指摘をする研究もあるが、本論では直喩表現にしぼって、意識的に比喩表現に依存していこうとする言語認識の在りようを論じた。
鎌倉・湘南と川端文学・戦前-「故園」の特質-, 国文学解釈と鑑賞 別冊川端康成旅とふるさと, 158, 165, 1999年11月01日, 至文堂, 作家川端の生涯をその旅や住居の場所と創作との関係から考察した。伊豆・湯ヶ島での生活から結婚後の生活の場として鎌倉が重視されるが、戦前期の創作としては「雪国」のほか、かなりな数の「少女小説」が書かれ、そこには戦後作品の「古都」を暗示するものも少なくないこと。また、養女を迎える動揺を描いた「故園」という未完の作品に、書く意識自体の自覚的な追究が見えることを論じた。
「書くことの交錯と飛躍―夏目漱石『こころ』論―」, 『国文学解釈と鑑賞』, 第106巻3号, 100, 107, 2008年07月01日, 至文堂
, 『こころ』には二つの〈書く〉という行為が重なっている。先生の私宛の長大な手紙(下)と私が先生との出会いから執筆していく(上・中)がそれぞれ〈書く〉ベクトルを異にしながら接続されている。この二つの書く行為を、連続性において解釈するか、対置関係として読むか、多彩な論点が見出されて既に久しいが、〈書く〉行為の非主体性、あるいは、非実体性とでも言う他にない視点に即して考察した。
「小林秀雄・〈形姿〉という文体―その生起をめぐって―」, 『國學院大學紀要』, 第47巻, 21, 41, 2009年02月03日, 國學院大學, 戦後の代表作『本居宣長』読解に関わる問題群を整理した上で、未だ位置づけの定まらない未完の「感想」(ベルグソン論)との交錯した言説状況を確認し、昭和35年に見られる両者の交錯状態を再考した。その上で、ベルグソンテキストとは異なるもう一つの宣長論への記述のベクトルを、「形・姿」という概念の獲得とその展開にあるのではないかという視点を設定した。それは小林の骨董体験に育まれた「美」への固有な思考であったことを骨董開始前後の状況を参照することで浮き彫りにした。
「小林秀雄「慶州」から「骨董」まで―「骨董いぢり」の認識論へ―」, 『國學院雑誌』, 第110巻第5号, 14, 27, 2009年05月01日, 國學院大學, 昭和13年から始まった小林秀雄の骨董体験がいかなる過程を経て、批評の言語に定着していったのか。その生成の道筋を昭和13年の朝鮮旅行で訪問した仏国寺石窟庵における「美」がもたらす不快感への反省に始まるものと想定し、そこから戦後にかけての小林の文章に現れる「美」への思考が展開される様相を展望した。また、昭和16年の「感想」にも「美」と直面することの逡巡が現れるが、それが戦後の「骨董」における近代美学への不信感、骨董いじりの身体行為論的な美の把握へと展開していくことを考察した。
「〈文脈〉の匿名性と意味の変容―川端康成「金糸雀」を事例として―」, 『日本文学』, 第58巻8号, 2, 11, 2009年08月01日, 日本文学協会, 1980年代に盛んに展開された言語論において、言語とは何かという問いはソシュールの「言語には差異しかない」という見解のさらに深みへと進み、言語の匿名性を露呈させ、言述の遊動性を確認しようとしていた。このことを確認しつつ、文学作品の語句がいかにして文脈を呼び起こし、かつ、取りこまれつつ浮遊する意味を獲得しうるのかを考察し、文脈の匿名性を問題化しようと試みた。具体的な事例として、川端康成「金糸雀」の読解、分析を行った。
「ごん狐」論・その伝承の時空へ, 『國學院大學教育学研究室紀要』, 第44号, 1, 12, 2010年02月10日, 國學院大学文学部教育学研究室, 新美南吉「ごん狐」論は膨大な数に上るが、小学校教材として枠組みが問題提起を
狭くしているところがある。これを童話として読解する以前にその語りの形式、作品
構造のあり方、特に語り手のこれを語る動機と意志を精査した論はまだ充分とはいえ
ない。本論は、「ごん狐」を擬人法(活喩)発動の原初形態の痕跡、すなわち、「ごん」と名付けられた狐の物語の発動と、その必然性をめぐって分析、考察を試みたものであり、いたずら狐が「ごん」として伝承されていく場と時間の読解を提案するもので
ある。
「小林秀雄「真贋」論―その虚構を貫くもの―」, 『都留文科大学研究紀要』, 第71集, 53, 74, 2010年03月10日, 都留文科大学, 「真贋」には、ニセ物とホン物という意味と価値が不安定に錯綜する間に美の世界が開けてくるという確信が語られている。つまり、ニセ物とホン物とは美を見出すことにおいて関係論的、共起的に成立する概念であるとするならば、この認識を醸成した背景には、「真贋」にちりばめられた事実とその虚構に関係がある。すなわち、青山二郎、秦秀雄、島木健作、白州正子等関係者の記事、長女明子の回想記等同時代資料の分析を通して、事実と虚構の差異を考察しながら小林秀雄の骨董弄りが徐々に明かしてきた美の仕組みとその認識について論じたものである。
「森鴎外「舞姫」を読むために―発見的記述の行方―」, 『國學院大学教育学研究室紀要』, 第45号, 2011年02月10日, 國學院大学教育学研究室, 森鴎外「舞姫」が太田豊太郎を〈書き手〉とし表象しつつ、その書くこと=記述行為に読者の注意を促している機能を問題化してみるという観点を提出した考察である。〈書き手〉太田が帰国の途中、セイゴン港に停泊中の夜に書き起こされた「手記」は、自己認識という明確な目的を有しているが、自己を語る方法として時系列の記述に沿った形式をとったために、所謂物語文体が形成されていったが、しかし、自己認識への指向性をも孕んでいた記述であったために、物語と自己分析という二つのベクトルを混在させているものとなった。この自己分析部分をいかに浮上させていくかという問題提起を行ったところに主眼がある。
「森鴎外「舞姫」の今―中等室の読者へ―」, 『國學院大学教育学研究室紀要』, 第46号, 2012年02月10日, 國學院大学教育学研究室, 前年の國學院大学教育学研究室紀要第45号に掲載した「舞姫」論の補足と展開を兼ねて論じているものである。本文中に「手記」の〈書き手〉として登場する太田豊太郎は、「文」を書き連ねていく過程にあって、物語文体を紡ぎつつ、「文」の目的である自己発見への指向性を顕在化させつつ、記述行為において二重化し、また時に分裂する傾向を示す。そして、記述し、これを読み進める〈読者〉でもある様態を示すが、最終的には「文」の完成において「中等室にいる我が手記を鑑賞する読者」として自己発見するはずである。その〈読者〉としての太田の有り様を考察したものである。
「小説の時間―「ざくろ」と「笹舟」に触れて―」, 『川端文学への視界(川端康成学会編)』, 第27号, 2012年06月10日, 川端康成学会・(株)銀の鈴社, 川端康成の掌篇小説である「ざくろ」と「笹舟」を読解する上で、いわゆる時空間の整序を前提とした物語読解を進めていくと、その線条的な時間を構成する言葉以外の、物語構成とは逆向きの言葉が出現し、小説言説を三次元空間と線的なベクトルである時間という意味の場を逸脱する方向へと読者を誘っていく点を確認し、そこから、近代小説が喚起する時間の観念を相対化する可能性を考察したものである。
「夏目漱石『こころ』「上・先生と私」を追跡する―回想の往還記述―」, 『國學院大学教育学研究室紀要』, 第47号, 2013年02月10日, 國學院大学教育学研究室, 夏目漱石『こころ』がかつて「先生」と呼んで親しい交際を経験した「私」の回想記である「上・先生と私」と「中・両親と私」の二章と、「先生」自身による回想記「先生と遺書」という〈書き手〉を異にした二つの記述体からなっていることを踏まえた上で、まず「上・先生と私」のみに限定して記述行為分析を行ったものである。そして、過去を回想して書き始める「私」は、「先生」について書くことを読者に知らせつつも、「先生」と語り合うことで形成した関係に制御され、「語る」行為への誘惑に惑わされつつ「書く」という矛盾した記述を出現させている点に注目した論考である。
「小林秀雄の講演「雑感」と「本居宣長」―昭和四十年・國學院大學での講演から―」, 『日本文学論究』, 第72冊, 2013年03月25日, 國學院大學國文學會, 昭和40年11月27日に國學院大學大講堂にて開催された、國學院大學日本文化研究所主催、秋季学術講演会において、講師として小林秀雄が「雑感」と題して講演を行った。その内容を紹介した上で、それが、同年の「新潮」6月号から連載が始まった「本居宣長」の内容と連続性が有り、かつ、その後の連載内容の予告でもあった点を重視し、小林秀雄の講演が、「本居宣長」という文章を書いていくこと自体を内包するものであることを考察したものである。
「批評の中の〈私〉へ―小林秀雄「私小説論」が問うこと―」, 『都留文科大学研究紀要』, 第79集, 2014年03月20日, 都留文科大学研究紀要編集委員会, 小林秀雄「私小説論」が問題提起した「自然主義文学」から「私小説」の展開の日本的受容のいびつな形という批判点を、従来のとらえ方として確認しつつ、では、日本近代文学史への批判検討としてではなく、批評家小林秀雄自身の表現行為の指向性において読むことは可能であるかを問題化した論考である。また、「私小説論」における読解を踏まえて、この文章自体がこれ以前の小林の文章を収集していくことを指摘し、昭和初年代の小林の批評における「伝統」、「虚構」、「私」という3つの概念が相互に関係しつつ記述されていた点を考察した者である。
「小林秀雄「私小説論」の指向性」, 『日本文学論究』, 第73冊, 2014年03月20日, 國學院大學國文學會, 平成26年度の國學院大學國文學會・春季大会におけるシンポジウム、〈私〉をめぐる言説―昭和10年前後の文学を中心に― のパネラーとして参加し口頭発表した論に基づいた論文である。小林秀雄が昭和10年に発表した「私小説論」の研究、評価の有り様を検討し、そこには近代文学史への批判検討という趣旨と、小林自身の書く行為、批評言説をどう構成していくかという表現者としての問題意識と、こと二つが混在して表現されていることを考察し、併せて、「私小説論」の課題が後者において注目される点を考察したものである。
「佐藤信夫の言語論-言語にいらだつ詩人のように-」, 『國學院雑誌』, 第115巻11号, 39, 56, 2014年11月15日, 國學院大學, レトリック論を中心に現代言語論の分野で多くの業績を残した佐藤信夫氏(元國學院大學教授)の主要な論考を貫く論点「発見的認識の造形」の展開として、レトリック論の具体相を再考し、その必然的な帰結としての「意味論」を、最後の論考である『意味の弾性』の論述に即して分析、考察をした試みである。
「婦人雑誌としての『台湾愛国婦人』」, 「『台湾愛国婦人』の研究~本文篇・研究篇~」平成26年度國學院大學文学部共同研究報告書, 308, 315, 2015年02月01日, 國學院大學, 平成25年度から開始された『台湾愛国婦人』の研究グループに参加し、これまで未調査でありかつ未発見の号も多い本雑誌を収集調査し、その本文の翻刻と編集作業にあたってきたが、平成26年度には翻刻された本文に基づき、その近代文学史上の位置づけと掲載作品の評価、および考察を加えて研究篇を立ち上げた。研究分担者として「婦人雑誌」としての体裁と各種掲載記事の特質について分析したものである。
「夏目漱石『こころ』「中・両親と私」・消滅する〈書き手〉の行方」, 『國學院大學教育学研究室紀要』, 第49号, 51, 60, 2015年02月20日, 國學院大學教育学研究室, 同誌の第47号に掲載した夏目漱石『こころ』論に継続する論考である。『こころ』の物語行為上の大きな特徴は、その上・中の2章が書き手「私」の回想によって記述されるというところにあるが、前回に引き続き、「中」における「私」の回想と書いている現在との混交状態を分析し、いよいよ回想の核心部に記述が迫っていく直前に、書き手自身が記述行為そのものを放棄してしまう経緯を考察した試みである。
「夏目漱石『こころ』「下・先生と遺書」の記述行為論-『不可思議な私』を描出する文体-」, 『國學院大學教育学研究室紀要』, 第50号, 109, 121, 2016年02月20日, 國學院大學教育学研究室, 現行の「こころ」の第三章にあたる「先生と遺書」の章は全文が「先生」と呼ばれた男からの手紙(私信)とい体裁を取っている。この書き手=「私」が「K」と「お嬢さん」を巡る過去の出来事を1人称回想体で書き綴っていくことになる。つまり、ここには「私」が「私」を記述していくという生産行為が遂行されていくわけであり、そこで過去の記憶は現在の書き手のペン先から改めて形成されていくのである以上、「私」が回想記において発見した「私」が見いだせるはずである。この記述行為を分析した試みである。
「島尾敏雄の「ヤポネシア」論」-その起源へ, 石川則夫, 『國學院雑誌』, 67, 84, 2017年01月15日, 國學院大学, 島尾敏雄が奄美大島において図書館長職にありつつ郷土文化の研究を進めて「琉球弧」としての奄美を創出し、その文化の基底を日本列島全体を含み込んだ理念として「ヤポネシア」なる用語を使用したことには、賛否両論が戦わされてきた。また文化人類学や民俗学上の考察から「南島論」の範疇において批判検討されてきてもいる。この島尾の見出した理念、用語の成立過程をその実体験と文学表現に即して考察したものである。
「白鳥は哀しいのか―村上春樹「青が消える」の教材研究論」, 『國學院大學教育学研究室紀要』, 第51号, 59, 69, 2017年02月20日, 國學院大學教育学研究室, 村上春樹「青が消える」は2007年以降の高校用の教科書「国語総合」に掲載され、現代文教材としての使用が始まった。その後数社がこれを採用し、徐々に教材研究や作品研究も出されるようになってきている。たまたま論者はこの作品を初めて教材化(明治書院)した者であり、教科書指導書も執筆したので、授業内での読みを提案したことになる。そこで、現行の論文を検討し、改めて本作品の可能性を図ってみる試みを行ったものである。
「小林秀雄の文事-『本居宣長』の文体を辿る-」, 石川則夫, 『國語と國文學』, 第94巻9号, 3, 20, 2017年09月01日, 東京大学国語国文学会, 小林秀雄『本居宣長』は昭和52年に単行書として刊行され、多くの研究がなされてきたが、他の小林秀雄作品の研究と同様に、本居宣長という人間と作品への批評という二元的な把握のしかたを前提に考察が進められてきている。しかし、小林秀雄という表現者においてその作品の意義と価値を測定するという試みはほとんどなされていない状況である。本稿は本作品の物語行為に即してその文体の動きのありかたにおいて作品研究を追究したものである。
「小林秀雄と日本古典文学」, 石川則夫, 日本古典と近代の考察Ⅲ, 第3巻, p77, p96, 2018年07月01日, イタリア日本学会, 日本近代文学において近代批評というジャンルを創生したと言われる小林秀雄が日本の古典文学を吸収した時期を昭和10年以前と推定しうる根拠を示しつつ、小林秀雄の古典への志向性を促した契機としては、昭和8年に発表された谷崎潤一郎の『春琴抄』であることを、小林の文芸時評などを上げて論証した。また同時期の小林の交友圏のにいた林房雄との対談で日本史に関わるやりとりがあったことなども傍証として示し、戦後に向けての批評作品へ日本古典文学がどのように組み込まれていったのか考察した。
「「日本文学概説」を考えるー本質論としての難題へ―」, 石川則夫, 國學院大學教育学研究室紀要第53号, p17, p28, 2019年02月20日, 國學院大學教育学研究室, 國學院大學文学部日本文学科のカリキュラムにおける1年次の専門必修科目である「日本文学概説」の講義内容について、そもそも「概説・概論」とはいかなる内容を持つべきなのかを大学の教育史的な考察を踏まえて、ある一定の内容を必ずしも示してきたものではないこと、教授者自身の日本文学観が大きく影響し、逆にこれを問い直す契機も有するものであり、日本文学の本質論に関わらざるを得ない難題が過去から継続していることを確認した。したがって、この講座を担当する教員自身の自問自答が講義内容に大きく影響を及ぼしている現状を明確にし、今後の課題点をまとめたものである。
「『眠れる美女』研究史」, 石川則夫, 『川端康成作品研究史集成』, p365, p380, 2020年09月20日, 鼎書房, 川端康成『眠れる美女』は昭和36年11月の「新潮」誌上で完結したが、同年からの同時代評から平成17年までの研究論文を紹介しつつ、研究方法の変遷をたどり、問題提起と論点の動きを批判的に検討したもの。なお、平成30年に至るまでの先行研究文献の書誌データも附している。