K-ReaD( Kokugakuin University Researcher’s Achievement)

樋口 秀実
文学部 史学科
教授
Last Updated :2024/12/21

研究者基本情報

氏名

  • 氏名

    樋口 秀実, ヒグチ ヒデミ

所属・職名

  • 文学部 史学科, 教授

学位

  • 2003年01月, 博士(歴史学), 國學院大學, 文乙第176号

本学就任年月日

  • 2004年04月01日

研究分野

  • 中国近代史、日中関係史

研究活動

論文

  • 「対中国海軍部借款問題」, 『國學院雑誌』, 第93巻第1号, 35, 51, 1992年01月01日, 國學院大學, 日露戦後、米国を想定敵国とみなした日本海軍は、日中間に軍事的協力を結んで対米戦略を有利に展開しようと構想した。その一環として、原敬内閣期、日清戦争で壊滅的打撃を受けた中国海軍部に借款を提供して同軍の再興と対日協力獲得をはかろうと画策されたのが、対中国海軍部借款問題である。だが、第一次大戦後の新外交的潮流や日本の経済恐慌の影響によって借款は成立せず、構想も一頓挫をきたした。
  • 「日本海軍の大陸政策の一側面-1906~21年-」, 『国史学』, 第147号, 63, 91, 1992年05月01日, 国史学会, 本稿は、日露戦後からワシントン会議まで海軍の対中政策を解明している。第一次世界大戦中、日米関係が中国問題を通じて悪化すると、海軍は日中両海軍間の提携実現を模索した。中国を対日資源供給地として利用しつつ、日中両国が協力して対米開戦に備えようとしたのである。だが、こうした日中提携路線は日米関係をさらに悪化させ、対米協調路線への転換をめざしたワシントン会議を契機に後退した。
  • 「日本海軍の対中国政策と民間航空事業」, 『国史学』, 第155号, 33, 60, 1995年05月01日, 国史学会, 本稿は、日中間の民間国際航空路開設にあたって海軍がとった対中政策とその意図を論じたものである。第一次大戦を通じて発展した航空事業は、戦後、国家権力拡張を媒介する手段となった。とくに中国大陸では、航空事業権益獲得をめぐって列国間に熾烈な競争が展開された。そうしたなか、海軍は英米両国の対中進出抑制と日中間の提携実現のため、中国の航空事業に対して日本の勢力を扶植しようとした。
  • 「満州事変と日本海軍」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第80輯, 217, 243, 1997年10月01日, 國學院大學日本文化研究所, 本稿は、満州事変をめぐる陸海軍関係の考察を通じて海軍の視点から事変史を構築したものである。この当時の海軍は中国問題をめぐって対米関係を悪化させたくないとの配慮から、海軍全体としては陸軍抑制の姿勢をとった。だが、ロンドン海軍軍縮問題をめぐる艦隊派対条約派の内部対立が事変への海軍の対応にも反映した結果、海軍の陸軍抑制策は十分に奏効せず、事変の進展を許すことになった。
  • 「日中関係と日本海軍-昭和10年の中山事件を事例として-」, 軍事史学会編『日中戦争の諸相』, 53, 66, 1997年12月01日, 錦正社, 海軍は、1935年の陸軍による華北工作に反対しながら、日中開戦前の川越・張群会談では一転して対中武力行使も辞さないとの強硬姿勢をとった。本稿は、上海で発生した日本海軍兵曹射殺事件への海軍の対応をみるみることで、そうした政策転換の過程を跡付けている。海軍は、自己の勢力範囲とする華中・華南において工作に反対する抗日テロ事件が続発するのをみると、急速に対中姿勢を硬化させた。
  • 「日中関係与有田八郎」, 米慶余主編『日本百年外交論』, 156, 185, 1998年08月01日, 中国社会科学出版社, 本稿は、かつて筆者が在籍していた中国・南開大学日本研究センターで行なわれた共同研究「日本の外交と外相」の成果である。ここでは、昭和戦前期の代表的外交官・有田八郎の生い立ちや外交官としての経歴、外交理念等を分析したうえで、広田弘毅内閣時代の有田が開戦前の緊迫する日中関係を修復するにあたり、どの程度の影響力を外相として行使しえたのか、また有田の活動の結果、日中関係にどんな変化がもたらされたのかを考察している。
  • 「日中防共協定締結問題」, 安岡昭男編『近代日本の形成と展開』, 247, 264, 1998年11月01日, 巌南堂書店, 本稿では、1936年の川越・張群会談で協議された日中防共協定への両国の対応を分析することで、会談が日中避戦の機会として有効だったのかを問うている。日本外務省は戦争回避の手段として協定を考案したが、両国政府とも国内の対外強硬派を抑える必要から相手に妥協できる範囲が限られおり、会談は難航した。その間、日独防共協定締結や西安事件などの新事態が出現し、協定は有効性を喪失した。
  • 「日中関係と日本海軍-1933~1937年-」, 『史学雑誌』, 第108編4号, 63, 88, 1999年04月01日, 史学会, 本稿では、1935年の華北分離工作前後の日本海軍の対中政策を分析することにより、開戦へと至る日中関係史を海軍の立場から叙述している。本工作前、第2次ロンドン海軍会議を控えて対米観を悪化させていた海軍は、日中提携下での対米対決をめざして中国西南派への親日化工作を展開した。しかし会議後の海軍は日米緊張緩和をめざす様になり、陸軍の華北分離工作を抑制するとともに、西南派への工作も中止した。つまり海軍の視点からみるかぎり、日本の対中政策は1935年をさかいに日中提携路線から英米協調路線へと転換している。
  • 「日中戦争下の日本の華僑工作」, 『アジア経済』, 第41巻4号, 2, 16, 2000年04月01日, 日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部, 本論は、日本が日中戦争中に東南アジア華僑に対して行なった懐柔工作の内容とその意図について考察したものである。日本は当時、汪兆銘工作などの日中和平工作の促進と、日本から中国沿岸部を経て東南アジアに広がる経済圏建設のために華僑への働きかけを行なった。その具体策としては、華僑郷土の安定化工作、郷土と居住地との連絡強化工作、居住地での親日化工作などがあった。
  • 「終戦史上の『戦後』-高木惣吉の終戦工作と戦後構想-」, 『軍事史学』, 第36巻2号, 4, 19, 2000年09月01日, 錦正社, 本論は、太平洋戦争末期の海軍少将高木惣吉の終戦工作がどのような戦後構想のもとに行われたものなのかを解明したものである。高木の工作は、戦時中の華僑工作などによって構築された日本から中国沿岸部を経て東南アジアまで広がる<三日月形の経済圏>を守るために行われたものである。そのために彼は、ソ連を仲介として米国との間に早期に和平を行なうとの方針を立て、工作を実施したのである。
  • 「汪兆銘工作をめぐる日米関係と日本海軍」, 『国際政治』, 第126号, 185, 198, 2001年04月01日, 日本国際政治学会, 近代日本外交史研究は、従来のそれが陸軍の対中政策の分析に重点をおいてきたがゆえに、日中戦争から日米戦争への拡大過程を跡付けにくいという問題点を抱えている。これを踏まえ、本稿では米国を想定敵国とする海軍の日中戦争処理方策を、汪兆銘工作をめぐる海軍の動向に焦点をあてて論じている。海軍は本工作において、汪政権を日本の対米軍事的パートナーに育成する方針をとった。一方、日本側のこうした姿勢を看取した米国は、中国問題をめぐる日米合意は達成されないだろうと判断するに至り、日米関係は決定的に悪化した。
  • 「日中関係と日本海軍」(博士論文), 2002年04月01日, 國學院大學, 対中政策の決定は、近代日本の最重要課題であった。にもかかわらず、従来の日中関係史研究は、陸軍と外務省の対中政策の検討にその焦点を絞りがちであった。その結果、海軍の対中政策の分析が疎かにされ、日中戦争から日米戦争への拡大の道程を辿りにくいという問題を抱えることになった。この問題を克服すべく、本書は海軍の対中政策構想、それが日本外交や日中関係に与えた影響、並びに日中・日米戦争間の発展過程の三点を明らかにしている。
  • 「東三省政権をめぐる東アジア国際政治と楊宇霆」, 『史学雑誌』, 第113編7号, 37, 70, 2004年07月01日, 史学会, 1929年1月10日、楊宇霆が張学良に暗殺された事件は通常、後者の反日感情が発露された事件として理解されている。つまり、中国内の反日感情が高まるなかで、張が反日政策を実行するために親日派である楊を殺害したというのである。しかし、本稿において東三省政権をめぐる日中ソ関係及び同政権内の権力構造を検討した結果、楊は決して親日派ではなく、むしろ政権の凝集力を高めるために全方位外交を展開していたこと、暗殺はそうした楊の政策をめぐる政権内部の権力争いの中から生じたものであることの2つが判明した。
  • 「袁世凱帝政運動をめぐる日中関係」, 『國學院雑誌』, 第108巻第1号, 2007年09月01日, 本稿は、袁世凱帝政運動をめぐる日中関係を、両国の外交活動・政治情勢・相手国に対する認識などの相互規定性という点に注目しつつ、解明したものである。従来の袁世凱帝政運動に関する研究にあっては、日本側は当該期の対中政策の形成・遂行過程だけに、一方の中国側は帝政移行に至る内政だけに注目しがちであった。しかし、本稿では、一方の内政、あるいは対外政策が他方のそれをどのように規定したのかという点に焦点を当てて、運動をめぐる日中関係を追究している。
  • 満洲事変勃発後の「宣統帝ヲ頭首トスル支那政権案」について, 史学研究集録, 35, 1, 10, 2010年03月31日, 國學院大学大学院史学専攻大学院会, 1931年9月18日の満州事変勃発後、関東軍は、旧清朝宣統帝を国家元首として新国家を樹立する旨を決定した。本稿は、事変前には満州地方の占領を計画していた関東軍が、どうしてその決定を変更して新国家を樹立するようになったのかを、旧宣統帝溥儀と彼の周囲にいた清朝遺臣たちの動きを重ね合わせながら、論じたものである。溥儀を元首として満洲国が成立したのは、関東軍の動きのみならず、辛亥革命以来断続的に続いていた清朝復辟の流れがあってこそのことである。
  • 「満洲国皇帝制度の成立と皇帝即位儀礼」, 『国史学』, 第200号, 147, 196, 2010年04月30日, 国史学会, 本稿は、1932年から1934年にかけての満州国皇帝制度の成立過程と1934年3月1日に行なわれた溥儀の皇帝即位儀礼とを分析することを通じ、従来は日本の「傀儡国家」として認識されている満洲国の権力構造を再検討したものである。満洲国は、物理的権威を担当する関東軍及び同国日本人官吏と精神的権威を担当する溥儀など中国人官吏との共同によって権力構造が成り立ち、後者の権威を日本政府・陸軍中央部が後援することによって2つの権威のバランスが維持される仕組みになっていた。
  • 満洲国「建国神廟」創設をめぐる政治過程, 東洋学報, 第93巻1号, 2011年06月01日, 東洋文庫, 満洲国で1940年に創設された建国神廟は、従来、日本の国家神道を満洲国に輸出して対満文化侵略を行ったことの象徴的存在として、ひいては満洲国が日本の「傀儡国家」であることの証左として理解されてきた。これに対し、本稿は、建国神廟が宗教施設として満洲国の国家・国民統合にどのような役割を果たしたのか、さらには、満洲国に天照大神を祭神とする宗教施設を設けることが、同国の内政・外交のなかでどのような意味を持ったのか、という点から、建国神廟の存在意義を再検討している。
  • 満洲国「帝位継承法」の研究, 東洋学報, 第95巻1号, 2013年06月01日, 東洋文庫, 本稿は、1937年3月1日に成立した満洲国の「帝位継承法」の制定過程とその背後にある国家概念の分析を通じて同国の権力構造における皇帝の位置や役割を明らかにしつつ、国家元首であるところの皇帝の権力を分析することで、同国の国家的特質を解明するものである。さらに、本稿の最終的目的は、満州国皇帝を事例として、王の「政治的身体」がどのように形成されるかを通時・通域的に明らかにすることである。
  • 日中戦争下、湖北省における日本の占領地統治と汪兆銘政権, 東アジア近代史, 第17号, 2014年03月31日, ゆまに書房, 本稿は、汪兆銘政権が日中戦争下の日中関係や中国社会において果たした役割を、湖北省における政権の統治の実態を明らかにすることにより、解明したものである。汪兆銘政権に関する従来の研究は、その「傀儡」性の度合いを判定するものが多かったが、本稿は、そうした性質とは別に、日中戦争下で変転する中国社会に対し政権がいかに向き合ったのか、また日本との関わりのなかで政権の性格がどのように定まっていったのかを強調している。本稿において湖北省を分析対象としているのは、同省が日中戦争の最前線に位置しているがゆえに、日本の政治・軍事集団のなかで同省の占領地統治をめぐり戦術的考慮を優先させるのか、それとも政治的考慮を優先させるのかに関する意見対立があらわれやすく、それが汪兆銘政権の統治の性格を規定したこと、ならびに最前線であるがゆえに政権が中国国民・共産両党と正面から対峙し、それがまた政権の性格や統治に影響を与えたことの二つの理由があるからである。
  • 日中関係と日本海軍 : 一九三三〜一九三七年, 樋口 秀実, 史学雑誌, 108, 4, 527, 552,618-62, 1999年, 公益財団法人 史学会, In modern times, especially after the Russio-Japanese War, how to deal with China was one of the most important problems for Japan. It was not just as a common diplomatic problem, but also was closely related to Japan's secuity-its independence and national security-and also to matters influencing daily life in Japan, such as resources, population, provisions, and foreign trade. Most of the research so far on the history of Sino-Japanese relations has focused on the antagonism between the Japanese Army and the Ministry of Foreign Affairs, while the Navy's policy towards China has been almost neglected. In order to grasp the whole image of this history, however, it is necessary to restudy it from the viewpoint of the Navy by examining the role it played in Japan's policy-making towards China. Because Japan's policy towards China, as above mentioned, bore great in those days, the Navy also had to grapple with the China problem after the Russio-Japanese War, the Navy had foresaw that the outbreak of a Japanese-American War could be caused by the China question, Modern Japan's diplomatic policy was mostly decided in the tripartite meeting by the Army, the Navy and the Ministry of Foreign Affairs. This is the matter to be examined in the present article which focuses on the Navy's activities before and after the time when Japan made its North China maneuver which led to the outbreak of the Sino-Japanese War. After the Manchurian Incident, the Army had an increasingly powerful voice on the issue of China, and "the policy towards China" began to become a "synonym of the policy towards the Army." It has been said that the Navy function-d as "a brake" to control the Army, but recent studies, mainly of the Meiji and Taisho eras, have begun to focuson the cooperative relations between the Army and the Navy on the China problem. This matter is taken up here by considering the aspect not only of the Navy's role of slowing the Army down, but also of advancing into China under the cooperation with the Army.After 1935, the Navy shifted its policy towards China to a more moderate one. Up to 1935, it had proceeded with the "South China maneuver" that aimed to make that region's local governments pro-Japanese, just like the Army had done in Manchuria and North China. The Navy forcefully urged the Kuomintang government to adopt a pro-Japanese attitude by using the pressure of the North and South China maneuvers, since they had already planned a Sino-Japanese united front against the United States in the midst of friction over naval disarmament. On the other hand, after the Second London Naval Conferenceof 1935, the Navy began to grope for detente with the U.S. and they suspended its plan to partition of China. It can be said, however, that the outbreak of the Sino-Japanese War meant that the Navy failed to moderate Japan's policy towards China. Considering also that up to 1935 the Navy had carried out a China partition policy like the Army, its role did not serve as a brake on Japan's hardline measures, but rather accelerated them. And, in the view of China, the Navy's policy constantly forced China to take stronger measures against Japan before and after 1935. This is because the Navy had up to 1935 caused anti-Japanese sentiment in China by carrying out the partition policy, while after 1935 it encouraged the Kuomintang govern-ment to unify China.
  • 東三省政権をめぐる東アジア国際政治と楊宇霆, 樋口 秀実, 史学雑誌, 113, 7, 1223, 1258, 2004年, 公益財団法人 史学会, The research to date dealing with the assassination of Yang Yuting by order of Zhang Xueliang on 10 January 1929 focuses on the belief that Yang was pro-Japanese. What the research fails to consider, however, is the assassination of Chang Yinhuai on that same date, which pan by no means be attributed to pro-Japanese sentiment, since Chang never studied in Japan, which is the only proof offered for Yang's pro-Japanese position. Could these assassinations have had some other motive? The author of this article believes so, based on two points yet to be considered in the existing research. The first has to do with the public careers and political ideas of the two victims. Studies have clearly shown the political ideas and actions of Zhang Xueliang from the time of the bombing death of Zhang Zuolin at the hands of a Japanese agent on 4 June 1928 to the hoisting of the Nationalist flag on 29 December of that year ; however, a similar analysis of Zhang's activities during that time has yet to be done, due to the a priori assumption that Zhang and Yang were political enemies. Consequently, we have no idea of Yang's policy stances or how they conflicted with Zhang's, other than the former's alleged pro-Japanese sentiment, leading to the conclusion that Yang's assassination was motivated by personal conflict between the two. This is why the author of the present article has felt the need to delve into the political ideas and actions of Yang and Chang Yinhuai. The author's second point focuses on the power structure of the Sandongxing 東三省 Regime and the political roles played in it by Zhang, Yang and Chang. Whenever conflict occurs in any political regime, clashes usually occur between factions, not individual politicians. In the case of the Sandongxing Regime, conflict not only occurred along generational lines (between the old timer and newcomer factions), but also geographically between the leading province in the triad, Fengtian, and the other two, Jilin and Heilongjiang. What remains unclear is where Zhang, Yang and Chang stood within the Regime's structure of conflict, which may be the key, to why the latter two were assassinated. One more factor that must be taken into consideration is the situation of the three countries bordering on the Sandongxing region : China, the Soviet Union and Japan. The research to date has tended to emphasize the actions of Japan in the framework of the historical background to its relationship to Manchuria. However, even if it can be proved that Yang was pro-Japanese, it is still important to identify his place in the Regime's structure and the Regime's relationship to its other two neighbors. Also, within the fluid international situation at that time, the Regime's structure was probably also in flux, one good example of which being Yang's assassination. With respect to China, it was being ruled by two central bodies, the government in Beijing ruling over Changcheng 長城 and all points south and the Nationalist government. However, these bodies did not exercise full control over the country in the same manner as the former Qing Dynasty or the later People's Republic. This is why the author deals with the "China factor" focussing not only on the two central ruling bodies, but also the, movements of the various warlord factions.
  • 四 政治外交 二(近現代,日本,二〇〇七年の歴史学界-回顧と展望-), 樋口 秀実, 史学雑誌, 117, 5, 799, 805, 2008年, 公益財団法人 史学会
  • 江兆銘工作をめぐる日本海軍と日米関係, 樋口 秀実, 国際政治, 2001, 126, 185, 198,L20, 2001年, 一般財団法人 日本国際政治学会, The German-Soviet Non-Aggression Pact had a great influence on Japan's diplomatic policy during the Sino-Japanese War era. After the two countries concluded the Pact on October 23, 1939, the Japanese Army was forced to abandon its policy for the settlement of hostilities in China by strengthening the Japanese-German Anti-Comintern Pact. So far the Army had considered that the strengthened Pact would have led to the settlement of hostilities, while would have made the Japanese national defense against the Soviet Union more secure. On the other hand, the Japanese Navy tried to play a leading role in Japan's policy-making towards foreign countries, especially towards China, after the conclusion of the German-Soviet Pact. The Navy, which had taken steps to advance southward, had been apprehensive over that it would increasingly lose a voice over policy-making following the outbreak of the Sino-Japanese War, and the Chang-Ku-Feng and Nomonhan incidents between Japan and the Soviet Union. It had functioned as a brake to control the Army and then had searched for an opportunity to get a powerful voice back. The German-Soviet Pact gave the Navy such a golden opportunity. And Japan took advantage of the new phase of the international political situation that resulted from the signature of the German-Soviet Pact. Britain and France carried out their appeasement policy towards Japan in Asia, while they confronted Germany and the Soviet Union in Europe. The Chinese National Government at Chungking was deeply shocked that the Britain and France considered stopping the Sino-Japanese War once the Wang Jing-Wei regime at Nanking had come into existence. The formation of a united government by Chungking, Nanking and the Chinese Provisional Government at Peking seemed to be possible. What measures Japan took to settle hostilities after the conclusion of the German-Soviet Pact is the matter to be examined in this article, which focuses on the activities of the Navy for the establishment of the Wang regime.
    In order to end the War, the Abe Nobuyuki Cabinet, which was formed shortly after the conclusion of the German-Soviet Pact, began to grope for détente with the United States. In those days, the United States was the only country that could intervene in the China problem, while all other counries, such as Britain, France, Germany, and the Soviet Union, had to grapple with the issues of Europe. Both the Navy and the Japanese Foreign Ministry, which also had a voice in policy-making after the signature of the Pact, prompted this moderate policy towards the United States. The Navy, however, did not agree with the Foreign Ministry as to what measures Japan should take to settle the hostilities in China. The latter had the idea to use the Wang Jing-Wei regime as an intermediary with Chungking Government with a view to the settlement of hostilities. It seemed that Japan's strong measures towards the Wang regime would force him to be Japanese puppet and prevent an intervention by him or the United States with the Chungking Government. The former had a strategic plan that the Wang regime would be obliged to closely cooperate with Japan in a war against the United States. In fact, the United States criticized the Japanese hard-line policy towards the Wang regime and reckoned that there was no use in entering into further negotiations with Japan over th China problem.
  • 毛里英於菟の「東亜協同体」論からみた東アジアの地域秩序構想, 樋口 秀実, アジア経済, 61, 1, 2, 34, 2020年03月15日, 独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所,

    本稿は,革新官僚の1人である毛里英於菟の「東亜協同体」論を題材に,東亜新秩序構想の性格と役割を考察する。従来の研究が,日中戦争を正当化するための論理としての新秩序の後天的性格を強調するのに対し,本稿は,「東亜協同体」論の論理的特質とそれを基礎として毛里が行なった実践的活動とを解明する。本稿は,その解明を通じて,現実社会で顕現せんとする「東亜協同体」論の性格や役割を検討する。毛里の「東亜協同体」論は,一般の国際秩序論のような,国家を構成要素とする連合的組織ではない。それは,既存の諸国家・諸民族の枠組みを溶解し,広域に居住する人々が普遍的理念に基づいて国境を越えて団結し,一個の目的達成に向かって全体として邁進する,擬人的団体を創出する試みである。このため,アジアの諸国家・諸民族で共有しうる普遍的理念の確立が「協同体」建設のための最重要課題となり,その確立が十分にできないまま終戦を迎えた。

  • 日中関係と日本海軍 : 一九三三〜一九三七年, 樋口 秀実, 史学雑誌, 108, 4, 527, 552,618-62, 1999年, 公益財団法人 史学会, In modern times, especially after the Russio-Japanese War, how to deal with China was one of the most important problems for Japan. It was not just as a common diplomatic problem, but also was closely related to Japan's secuity-its independence and national security-and also to matters influencing daily life in Japan, such as resources, population, provisions, and foreign trade. Most of the research so far on the history of Sino-Japanese relations has focused on the antagonism between the Japanese Army and the Ministry of Foreign Affairs, while the Navy's policy towards China has been almost neglected. In order to grasp the whole image of this history, however, it is necessary to restudy it from the viewpoint of the Navy by examining the role it played in Japan's policy-making towards China. Because Japan's policy towards China, as above mentioned, bore great in those days, the Navy also had to grapple with the China problem after the Russio-Japanese War, the Navy had foresaw that the outbreak of a Japanese-American War could be caused by the China question, Modern Japan's diplomatic policy was mostly decided in the tripartite meeting by the Army, the Navy and the Ministry of Foreign Affairs. This is the matter to be examined in the present article which focuses on the Navy's activities before and after the time when Japan made its North China maneuver which led to the outbreak of the Sino-Japanese War. After the Manchurian Incident, the Army had an increasingly powerful voice on the issue of China, and "the policy towards China" began to become a "synonym of the policy towards the Army." It has been said that the Navy function-d as "a brake" to control the Army, but recent studies, mainly of the Meiji and Taisho eras, have begun to focuson the cooperative relations between the Army and the Navy on the China problem. This matter is taken up here by considering the aspect not only of the Navy's role of slowing the Army down, but also of advancing into China under the cooperation with the Army.After 1935, the Navy shifted its policy towards China to a more moderate one. Up to 1935, it had proceeded with the "South China maneuver" that aimed to make that region's local governments pro-Japanese, just like the Army had done in Manchuria and North China. The Navy forcefully urged the Kuomintang government to adopt a pro-Japanese attitude by using the pressure of the North and South China maneuvers, since they had already planned a Sino-Japanese united front against the United States in the midst of friction over naval disarmament. On the other hand, after the Second London Naval Conferenceof 1935, the Navy began to grope for detente with the U.S. and they suspended its plan to partition of China. It can be said, however, that the outbreak of the Sino-Japanese War meant that the Navy failed to moderate Japan's policy towards China. Considering also that up to 1935 the Navy had carried out a China partition policy like the Army, its role did not serve as a brake on Japan's hardline measures, but rather accelerated them. And, in the view of China, the Navy's policy constantly forced China to take stronger measures against Japan before and after 1935. This is because the Navy had up to 1935 caused anti-Japanese sentiment in China by carrying out the partition policy, while after 1935 it encouraged the Kuomintang govern-ment to unify China.
  • 四 政治外交 二(近現代,日本,二〇〇七年の歴史学界-回顧と展望-), 樋口 秀実, 史学雑誌, 117, 5, 799, 805, 2008年, 公益財団法人 史学会
  • 東三省政権をめぐる東アジア国際政治と楊宇霆, 樋口 秀実, 史学雑誌, 113, 7, 1223, 1258, 2004年, 公益財団法人 史学会, The research to date dealing with the assassination of Yang Yuting by order of Zhang Xueliang on 10 January 1929 focuses on the belief that Yang was pro-Japanese. What the research fails to consider, however, is the assassination of Chang Yinhuai on that same date, which pan by no means be attributed to pro-Japanese sentiment, since Chang never studied in Japan, which is the only proof offered for Yang's pro-Japanese position. Could these assassinations have had some other motive? The author of this article believes so, based on two points yet to be considered in the existing research. The first has to do with the public careers and political ideas of the two victims. Studies have clearly shown the political ideas and actions of Zhang Xueliang from the time of the bombing death of Zhang Zuolin at the hands of a Japanese agent on 4 June 1928 to the hoisting of the Nationalist flag on 29 December of that year ; however, a similar analysis of Zhang's activities during that time has yet to be done, due to the a priori assumption that Zhang and Yang were political enemies. Consequently, we have no idea of Yang's policy stances or how they conflicted with Zhang's, other than the former's alleged pro-Japanese sentiment, leading to the conclusion that Yang's assassination was motivated by personal conflict between the two. This is why the author of the present article has felt the need to delve into the political ideas and actions of Yang and Chang Yinhuai. The author's second point focuses on the power structure of the Sandongxing 東三省 Regime and the political roles played in it by Zhang, Yang and Chang. Whenever conflict occurs in any political regime, clashes usually occur between factions, not individual politicians. In the case of the Sandongxing Regime, conflict not only occurred along generational lines (between the old timer and newcomer factions), but also geographically between the leading province in the triad, Fengtian, and the other two, Jilin and Heilongjiang. What remains unclear is where Zhang, Yang and Chang stood within the Regime's structure of conflict, which may be the key, to why the latter two were assassinated. One more factor that must be taken into consideration is the situation of the three countries bordering on the Sandongxing region : China, the Soviet Union and Japan. The research to date has tended to emphasize the actions of Japan in the framework of the historical background to its relationship to Manchuria. However, even if it can be proved that Yang was pro-Japanese, it is still important to identify his place in the Regime's structure and the Regime's relationship to its other two neighbors. Also, within the fluid international situation at that time, the Regime's structure was probably also in flux, one good example of which being Yang's assassination. With respect to China, it was being ruled by two central bodies, the government in Beijing ruling over Changcheng 長城 and all points south and the Nationalist government. However, these bodies did not exercise full control over the country in the same manner as the former Qing Dynasty or the later People's Republic. This is why the author deals with the "China factor" focussing not only on the two central ruling bodies, but also the, movements of the various warlord factions.
  • 江兆銘工作をめぐる日本海軍と日米関係, 樋口 秀実, 国際政治, 2001, 126, 185, 198,L20, 2001年02月23日, 一般財団法人 日本国際政治学会, The German-Soviet Non-Aggression Pact had a great influence on Japan's diplomatic policy during the Sino-Japanese War era. After the two countries concluded the Pact on October 23, 1939, the Japanese Army was forced to abandon its policy for the settlement of hostilities in China by strengthening the Japanese-German Anti-Comintern Pact. So far the Army had considered that the strengthened Pact would have led to the settlement of hostilities, while would have made the Japanese national defense against the Soviet Union more secure. On the other hand, the Japanese Navy tried to play a leading role in Japan's policy-making towards foreign countries, especially towards China, after the conclusion of the German-Soviet Pact. The Navy, which had taken steps to advance southward, had been apprehensive over that it would increasingly lose a voice over policy-making following the outbreak of the Sino-Japanese War, and the Chang-Ku-Feng and Nomonhan incidents between Japan and the Soviet Union. It had functioned as a brake to control the Army and then had searched for an opportunity to get a powerful voice back. The German-Soviet Pact gave the Navy such a golden opportunity. And Japan took advantage of the new phase of the international political situation that resulted from the signature of the German-Soviet Pact. Britain and France carried out their appeasement policy towards Japan in Asia, while they confronted Germany and the Soviet Union in Europe. The Chinese National Government at Chungking was deeply shocked that the Britain and France considered stopping the Sino-Japanese War once the Wang Jing-Wei regime at Nanking had come into existence. The formation of a united government by Chungking, Nanking and the Chinese Provisional Government at Peking seemed to be possible. What measures Japan took to settle hostilities after the conclusion of the German-Soviet Pact is the matter to be examined in this article, which focuses on the activities of the Navy for the establishment of the Wang regime.
    In order to end the War, the Abe Nobuyuki Cabinet, which was formed shortly after the conclusion of the German-Soviet Pact, began to grope for détente with the United States. In those days, the United States was the only country that could intervene in the China problem, while all other counries, such as Britain, France, Germany, and the Soviet Union, had to grapple with the issues of Europe. Both the Navy and the Japanese Foreign Ministry, which also had a voice in policy-making after the signature of the Pact, prompted this moderate policy towards the United States. The Navy, however, did not agree with the Foreign Ministry as to what measures Japan should take to settle the hostilities in China. The latter had the idea to use the Wang Jing-Wei regime as an intermediary with Chungking Government with a view to the settlement of hostilities. It seemed that Japan's strong measures towards the Wang regime would force him to be Japanese puppet and prevent an intervention by him or the United States with the Chungking Government. The former had a strategic plan that the Wang regime would be obliged to closely cooperate with Japan in a war against the United States. In fact, the United States criticized the Japanese hard-line policy towards the Wang regime and reckoned that there was no use in entering into further negotiations with Japan over th China problem.
  • 大東亜共栄圏と満洲国外交, 樋口 秀実, 東洋学報 = The Toyo Gakuho, 102, 1, 31, 62, 2020年06月18日, 東洋文庫, This article is an attempt to elucidate the kind of Manchukuo’s diplomacy with other Asian states, in order to analyze its national character and the structure of the Greater East Asia Co-Prosperity Sphere (GEACPS). While diplomacy normally helps a state establish its raison d’état, by enabling it to define its national character through participation in the international community and sharing values and interests with other members, as a “puppet state” of the Japanese Empire, Manchukuo differed in that respect, since it was largely dominated by diplomatic relations with Japan, which were at times in conflict with the principles of the GEACPS community, thus threatening to add a layer of complexity to its national character. On the other hand, Manchukuo was for Japan a model state for building the GEACPS, whereas the other countries in the Sphere sought independence and sovereignty, urging Manchukuo to also pursue equal diplomatic relations with Japan as a sovereign state. Consequently, as Japan expanded its influence in developing the “New Order of East Asia” into the GEACPS and the number of member countries increased, Manchukuo relinquished its role as a model polity and came to be recognized as an independent sovereign state.

Misc

  • 「不均衡の是正-ユージン・ドゥーマンと日米貿易関係-」, 上山和雄・阪田安雄編『対立と妥協-1930年代の日米通商関係』, 77, 125, 1994年10月01日, 第一法規出版, (ユリーン・J・メイヨ原著) 日米経済関係に関する従来の研究は、通商問題を正面から扱うよりも、中国問題をめぐる両国の対立やいわゆる真珠湾の道に焦点をあててきた。これを踏まえ、本論文は、1930年代の日米経済関係を、経済問題が有する本来的意味から論ずるべく、米国国務省の代表的知日派であるユージン・ドゥーマンが日米貿易関係の展開に果たした役割に焦点をあてながら、再検討している。
  • 「見学団-日系二世による日本研究旅行の起源-」, 上山和雄・阪田安雄編『対立と妥協-1930年代の日米通商関係』, 281, 308, 1994年10月01日, 第一法規出版, (ユージ・イチオカ原著) 本論文は、1924年の米国排日移民法制定以後の在米日系人の思想や行動を、日系二世の日本研究旅行=「見学団」に焦点をあてて論じている。同法制定後、二度にわたって企画された「見学団」は、米国育ちの日系二世を日本の風土に触れさせることによって彼らのなかに存在する日本への関心を刺激し、日米両国の相互理解の架け橋になってもらおうとしたものである。
  • 平間洋一著『第一次世界大戦と日本海軍』, 『史学雑誌』, 第108編9号, 133, 134, 1999年09月01日, 史学会, 本書は、第一次世界大戦への日本の関与や役割を日本海軍の視点から再構築したものである。著者の平間氏によると、従来の大戦研究は、中国大陸と陸軍との関係に限定されがちであるが、海軍も地中海に艦艇を派遣するなど少なからぬ役割を果たした。これを踏まえ、本書では、海軍が大戦中の日本の国策決定にどのように関わったのか、また海軍の作戦行動が大戦中の日本外交や国際関係にどのような影響を与えたのかの二点が解明されている。
  • 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班機密日誌』, 『古文書研究』, 第56号, 137, 139, 2002年11月01日, 本書は、参謀本部戦争指導班の班員がその日常業務の詳細を記した日誌である。ただ、この日誌の特徴は、すでに公刊済みの参謀本部蔵『敗戦の記録』(原書房、1967年)などと異なり、陸軍部内の公式記録ではなく、班員の眼から観察した戦争指導の私的記録の側面が強いことにある。それゆえ、日誌中には、班員の個人的見解や欲望が露呈されている箇所が少なくない。
  • 野村實著『日本海軍の歴史』, 『軍事史学』, 第39巻1号, 91, 98, 2003年06月01日, 錦正社, 本書は、江戸幕府が企図した日本海軍の創設から、日清・日露戦争、日中・太平洋戦争などを経て大日本帝国海軍の終焉までの歴史を概観することを目的とした、海軍の通史である。著者である野村氏は、戦前期の海軍士官であり、戦後は防衛庁防衛研修所(現・研究所)の戦史編纂官などを歴任された。その経験を存分にいかして記されたのが、著者の遺作である、本書である。
  • 支那通としての「板垣征四郎」, 日本歴史, 第792号, 2014年05月01日, 吉川弘文館, この小論は、同じ満洲事変の中心人物でありながら、石原莞爾に比べ研究の蓄積が圧倒的に少ない板垣征四郎の中国における活動と彼の中国認識とを簡単に跡付けたものである。板垣の中国認識の特徴は、中国史上の「征服王朝」に日本の姿をなぞらえ、中国政治における日本の指導的地位を正当化しようとしたこと、ならびに「分治合作主義」にもとづき、中国社会をいくつかの地方に分け、その地方ごとの特色を生かしながら日本の政治指導のもとに分権的に統治しようとしたことの二点である。

著書等出版物

  • 『日本海軍から見た日中関係史研究』, 芙蓉書房出版, 2002年05月01日, 対中政策の決定は、近代日本の最重要課題であった。にもかかわらず、従来の日中関係史研究は、陸軍と外務省の対中政策の検討にその焦点を絞りがちであった。その結果、海軍の対中政策の分析が疎かにされ、日中戦争から日米戦争への拡大の道程を辿りにくいという問題を抱えることになった。この問題を克服すべく、本書は海軍の対中政策構想、それが日本外交や日中関係に与えた影響、並びに日中・日米戦争間の発展過程の三点を明らかにしている。
  • 『国境を越える歴史認識-日中対話の試み-』, 東京大学出版会, 2006年05月01日, 本稿は、満州国を通して、歴史認識に関する同時代人と後世とのギャップを考察している。現代人である我々は満州国を傀儡国家とみるが、歴史の当事者たちは、それを理想国家とみなしている。しかし、その違いが由来するところは、実は満州国という歴史的事象を評価するにあたり、どの側面を評価するかの違いがあるにすぎない。つまり、両者の指摘はどちらも間違っていないのである。それゆえ、日中間に横たわる歴史認識問題を克服するためには、従来の見方にとらわれない第三の歴史認識を模索する必要があるのである。
  • 『戦間期の東アジア国際政治』, 中央大学出版部, 2007年06月28日, 1935年に中国国民政府によって行われた幣制改革は、中国金融・財政の安定化、国民政府による全国統一、中国による英米両国への接近とそれに反比例しての対日対立を促進したといわれている。しかし、幣制改革が、国民政府による対内政策の遂行、とくに掃共政策を支援するように進められた結果、金融・財政安定化への貢献度は限定的となるとともに、外交面でも日中関係を悪化させないように注意が払われことで、英米への接近も限定的となった。

講演・発表

  • 「日中航空協定締結問題」, 1993年11月01日, 史学会第91回大会(於 東京大学), 本稿は、日中間の民間国際航空路開設にあたって海軍がとった対中政策とその意図を論じたものである。第一次大戦を通じて発展した航空事業は、戦後、国家権力拡張を媒介する手段となった。とくに中国大陸では、航空事業権益獲得をめぐって列国間に熾烈な競争が展開された。そうしたなか、海軍は英米両国の対中進出抑制と日中間の提携実現のため、中国の航空事業に対して日本の勢力を扶植しようとした。
  • 「日中関係史の現在-1920~30年代を中心に-」, 1998年11月01日, 史学会第96回大会(於 東京大学), 日中関係史を日本海軍の立場からみた場合、従来の研究とは違った構図がみえる。つまり、海軍は、満州・華北地方を重視する陸軍とは異なり、華中・華南地方を自己の勢力範囲とみなした。一方、中国側の立場からすると、海軍のこうした考えは、陸軍と協力して中国を挟み撃ちするものと認識された。それゆえ、結果的には海軍の対中姿勢が日中戦争勃発を促進したともいえよう。
  • 「汪兆銘工作と日本海軍」, 2001年05月01日, 日本国際政治学会2001年度大会(於 上総アカデミアパーク), 近代日本外交史研究は、従来のそれが陸軍の対中政策の分析に重点をおいてきたがゆえに、日中戦争から日米戦争への拡大過程を跡付けにくいという問題点を抱えている。これを踏まえ、本稿では米国を想定敵国とする海軍の日中戦争処理方策を、汪兆銘工作をめぐる海軍の動向に焦点をあてて論じている。海軍は本工作において、汪政権を日本の対米軍事的パートナーに育成する方針をとった。一方、日本側のこうした姿勢を看取した米国は、中国問題をめぐる日米合意は達成されないだろうと判断するに至り、日米関係は決定的に悪化した。
  • 「対抗と提携の間-世紀を越えた日中関係-」, 2003年01月01日, 於 早稲田大学, 日本海軍の提唱した<日中海軍提携構想>は日中両国が協力して米国に対抗しようとするものであった。しかし、中国大陸が複数の政治勢力に分裂した中華民国期にあっては、提携は特定勢力との結び付きを強めることにほかならず、他勢力の反発を買う結果になった。そのため、日中関係を悪化させる一因にもなった。
  • 「楊宇霆暗殺事件再考」, 2003年06月01日, 軍事史学会第37回大会(於 防衛大学), 本報告は、1929年1月10日の楊宇霆・常蔭槐暗殺事件の原因を再考している。従来、この事件は、張作霖爆殺事件後反日政策をとるようになった張学良が親日派の楊を排除したものだ、といわれている。だが、私見のかぎり、楊は親日派ではなく、東三省の地域的集権化のため日中ソ三国に対する全方位外交を展開した。従って、暗殺事件も上記のような性格のものではなく、むしろ作霖死後に東三省政権内部で起こった権力争いの中で生じた事件である。

競争的資金

  • 19320104, 日本における護符文化の解明, 英国オックスフォード大学ピットリバース博物館で、明治時代に東京帝国大学で英語学・国語学の教師をしたチェンバレンのコレクションを調査した。その結果、護符資料の点数が知られていたよりずっと多く、資料は全国の社寺に及び、特に神社関係のものが多いことなどの新知見を得た。また国内調査でも、14世紀以来現在まで使われ続けている牛玉宝印(ごおうほういん)版木を確認し、これまで知られていなかった牛玉宝印を確認するなど、数多くの新知見を得た。それらの知見の多くは、2010年6月に発行される『日本の護符文化』(弘文堂)に掲載した。

教育活動

担当授業

  • 史学基礎演習B, 2019, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの王朝や国家に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポートを数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学基礎演習C, 2019, この演習は、前期の演習Bと同じように、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題を専門的に研究してみたいという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート執筆の3つを行なってもらいます。①については、前期の成果を踏まえ、複数の論文を読んだうえ、それらを比較・分析し、問題点を抽出するという、いわゆる「研究史の整理」に挑戦してもらいます。②については、アジアの歴史的人物、またはアジアに関わった日本や西洋の歴史的人物を1人とりあげ、その思想と行動について調査・報告してもらいます。③については、①と②の成果を踏まえ、複数回のレポートを書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。したがって、授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学展開演習I(外国史), 2019, この授業は、来年度、中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係などを含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書いてみたいという学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目となるべきテーマを具体的に設定する、②それぞれの興味に応じて課題を探し出し、それについて調査・報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学展開演習II(外国史), 2019, この授業は、来年度、中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係などを含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書いてみたいという学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目となるべきテーマを具体的に設定する、②それぞれの興味に応じて課題を探し出し、それについて調査・報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学導入演習, 2019, 本授業の前半では、本学の史学科生として充実した学生生活を送るために必要な基礎知識や能力、姿勢を培う。具体的には以下の4つを学ぶ。|(1)「学びの場」である史学科の歴史やカリキュラム、特徴を理解する|(2)大学での学び方、生活のマナーを身につける|(3)学修に必要な知識・情報(書籍・論文)の入手の仕方、情報ツールの活用法、学習・研究上の倫理(ルール)を知る|(4)学んだことをまとめ、考えたことを仲間に伝えるための発表の技術、文章作成術を身につける||本授業の後半では、各自が専攻しようとするコースでどのような研究をする場なのか、実際の研究にふれて、その概要を知る機会とする。|
  • 史学応用演習(東洋史), 2019, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 東洋地域史III, 2019, この授業は、近代日中関係史上の特質と変化を、前近代から近代への連続性と非連続性に留意しながら、説明する。とくに、前近代の東アジア国際秩序原理となった冊封(朝貢)体制が近代になって崩壊し、それにかわる新秩序形成への模索が進むなかで、「アジアの盟主」を自任する日本のアジア、とくに中国大陸にむかっての進出・侵略がそうした秩序形成にどのような影響を与えたのかという観点を、この授業は重視する。このため、前近代と近代との比較上、授業の前半では、前近代の東アジア国際関係史に言及する。| 近代の日中関係を説明するさいに強調されるのは、革命と戦争である。もちろん、この授業でも、それらを軽視しない。しかし、太平洋戦争や国共内戦の終結から半世紀以上が経過した今日の日中両国において、戦争や革命という言説のみに固執して往時をきりとることは、むしろ自由な発想を妨げ、狭小な愛国心や自傷心を煽るだけである。この授業でむしろ重視したいのは、近代という歴史を前近代の歴史の流れに乗せてあげることにより、古代からの日中関係の特質と変容を把握し、さらに、これから続いていく現在から未来への日中関係の見通しを立てることである。
  • 卒業論文, 2019
  • 史学基礎演習Ⅰ, 2020, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学展開演習I(外国史), 2020, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学導入演習Ⅰ, 2020, 本授業の前半では、本学の史学科生として充実した学生生活を送るために必要な基礎知識や能力、姿勢を培う。具体的には以下の4つを学ぶ。|(1)「学びの場」である史学科の歴史やカリキュラム、特徴を理解する|(2)大学での学び方、生活のマナーを身につける|(3)学修に必要な知識・情報(書籍・論文)の入手の仕方、情報ツールの活用法、学習・研究上の倫理(ルール)を知る|(4)学んだことをまとめ、考えたことを仲間に伝えるための発表の技術、文章作成術を身につける|| 本授業の後半では、各自が専攻しようとするコースでどのような研究をする場なのか、実際の研究にふれて、その概要を知る機会とする。
  • 史学応用演習(外国史), 2020, 本授業は、主に Zoom を利用した双方向型オンライン授業(ライブ配信)として実施する。||この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 東洋地域史III, 2020, この授業は、中国史上最大の「漢奸」(=裏切り者、売国奴の意)といわれている汪兆銘(精衛)と彼がつくった政権(汪兆銘政権)を、中国史や東アジア国際政治史の大きな流れのなかに位置付けて理解しようとするものである。| 従来、汪兆銘は、日中戦争期に日本軍の占領下にある地域に政権を樹立したことから、戦後、「漢奸」として断罪され、その政権も中国人から正統性・合法性のある政権として理解されてこなかった。しかし、この世に生を受けた瞬間から裏切りものになろうとするものはいないし、たとえ裏切り者になったとしても、その人物が同時代の社会に与えた影響が皆無であるわけでもない。| この授業では、汪兆銘の人生の軌跡を丁寧に跡付け、彼がなぜ祖国を裏切るかたちになったのか、その思想や目的を明らかにしたうえ、汪兆銘政権がなぜ誕生し、中国社会や国際社会にどのような影響を与えたのかを考察していく。| そのさい、汪の思想や行動の歴史的意義を浮き彫りにするため、彼の政治的ライヴァルであった介石や毛沢東との比較・検討を行なう。介石・毛沢東の両者もそれぞれ自前に政権(現在の中華民国=台湾や中華人民共和国の前身となる政権)を持っており、それらと比較することで、汪兆銘の特質をよりいっそう明確にしようというのである。| この授業を「現代版三国志」と名付けたのも、そうした比較史的手法を用いることで、汪兆銘と彼の政権の歴史的役割を明らかにしたいとの意図があるからである。
  • 史学展開演習II(外国史), 2021, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について卒業論文を書く予定の学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」(とくに東南アジアから南アジアにかけての地域)の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学応用演習(東洋史), 2021, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学基礎演習Ⅱ, 2021, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 東洋地域史III, 2021, この授業は、中国史上最大の「漢奸」(=裏切り者、売国奴の意)といわれている汪兆銘(精衛)と彼がつくった政権(汪兆銘政権)を、中国史や東アジア国際政治史の大きな流れのなかに位置付けて理解しようとするものである。| 従来、汪兆銘は、日中戦争期に日本軍の占領下にある地域に政権を樹立したことから、戦後、「漢奸」として断罪され、その政権も中国人から正統性・合法性のある政権として理解されてこなかった。しかし、この世に生を受けた瞬間から裏切りものになろうとするものはいないし、たとえ裏切り者になったとしても、その人物が同時代の社会に与えた影響が皆無であるわけでもない。| この授業では、汪兆銘の人生の軌跡を丁寧に跡付け、彼がなぜ祖国を裏切るかたちになったのか、その思想や目的を明らかにしたうえ、汪兆銘政権がなぜ誕生し、中国社会や国際社会にどのような影響を与えたのかを考察していく。| そのさい、汪の思想や行動の歴史的意義を浮き彫りにするため、彼の政治的ライヴァルであった介石や毛沢東との比較・検討を行なう。介石・毛沢東の両者もそれぞれ自前に政権(現在の中華民国=台湾や中華人民共和国の前身となる政権)を持っており、それらと比較することで、汪兆銘の特質をよりいっそう明確にしようというのである。| この授業を「現代版三国志」と名付けたのも、そうした比較史的手法を用いることで、汪兆銘と彼の政権の歴史的役割を明らかにしたいとの意図があるからである。
  • 史学基礎演習Ⅰ, 2022, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学基礎演習Ⅱ, 2022, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学展開演習I(外国史), 2022, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学展開演習II(外国史), 2022, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学応用演習I, 2022, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学応用演習(外国史), 2022, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学応用演習II, 2022, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、少しうるさいくらいでいいですから、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 東洋史概論II, 2022, この授業は、近代日中関係史上の特質と変化を、前近代から近代への連続性と非連続性に留意しながら、説明するものである。とくに、前近代の東アジア国際秩序原理となった冊封(朝貢)体制が近代になって崩壊し、それにかわる新秩序形成への模索が進むなかで、「アジアの盟主」を自任する日本のアジア、とくに中国大陸にむかっての進出・侵略がそうした秩序形成にどのような影響を与えたのかという観点を、この授業では重視する。このため、前近代と近代との比較上、授業の前半では、前近代の東アジア国際関係史について説明する。| 近代の日中関係を説明するさいに強調されるのは、革命と戦争である。もちろん、この授業でも、それらを軽視しない。しかし、太平洋戦争や国共内戦の終結から半世紀以上が経過した今日の日中両国において、戦争や革命という言説のみに固執して往時をきりとることは、むしろ自由な発想を妨げ、狭小な愛国心や自傷心を煽るだけである。この授業でむしろ重視したいのは、近代という歴史を前近代の歴史の流れに乗せてあげることにより、古代からの日中関係の特質と変容を把握し、さらに、これから続いていく現在から未来への日中関係の見通しを立てることである。
  • 東洋地域史III, 2022, この授業は、中国史上最大の「漢奸」(=裏切り者、売国奴の意)といわれている汪兆銘(精衛)と彼がつくった政権(汪兆銘政権)を、中国史や東アジア国際政治史の大きな流れのなかに位置付けて理解しようとするものである。| 従来、汪兆銘は、日中戦争期に日本軍の占領下にある地域に政権を樹立したことから、戦後、「漢奸」として断罪され、その政権も中国人から正統性・合法性のある政権として理解されてこなかった。しかし、この世に生を受けた瞬間から裏切りものになろうとするものはいないし、たとえ裏切り者になったとしても、その人物が同時代の社会に与えた影響が皆無であるわけでもない。| この授業では、汪兆銘の人生の軌跡を丁寧に跡付け、彼がなぜ祖国を裏切るかたちになったのか、その思想や目的を明らかにしたうえ、汪兆銘政権がなぜ誕生し、中国社会や国際社会にどのような影響を与えたのかを考察していく。| そのさい、汪の思想や行動の歴史的意義を浮き彫りにするため、彼の政治的ライヴァルであった介石や毛沢東との比較・検討を行なう。介石・毛沢東の両者もそれぞれ自前に政権(現在の中華民国=台湾や中華人民共和国の前身となる政権)を持っており、それらと比較することで、汪兆銘の特質をよりいっそう明確にしようというのである。| この授業を「現代版三国志」と名付けたのも、そうした比較史的手法を用いることで、汪兆銘と彼の政権の歴史的役割を明らかにしたいとの意図があるからである。
  • 史学基礎演習Ⅰ, 2023
  • 史学基礎演習Ⅱ, 2023
  • 史学展開演習I(外国史), 2023
  • 史学展開演習II(外国史), 2023
  • 史学応用演習I, 2023
  • 史学応用演習(外国史), 2023
  • 史学応用演習II, 2023
  • 東洋史概論II, 2023
  • 東洋地域史III, 2023
  • 史学基礎演習Ⅰ, 2023, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学基礎演習Ⅱ, 2023, この演習は、中国・朝鮮古代史を除いたアジア史の諸問題について専門的に勉強しようという学生を対象とします。授業の内容としては、①論文講読、②研究報告、③レポート(コメントペーパー)執筆の3つを行ないます。①については、アジア諸国・諸地域の歴史に関する学術論文を読みます。「東洋史」というと「中国史」を連想しがちですが、この演習では、日中朝三地域を中心とする「漢字文化圏」に属さない、アジアの「横文字文化圏」の歴史に関する論文も読みます。②については、アジアの歴史的事象に関する報告をしてもらいます。③については、論文分析や報告内容に関わるレポート等を数回書いてもらいます。①〜③の作業を通じて、テーマを設定する、調査・分析を行なう、結論を導きだすといった論文執筆のために必要となる技術を身につけてください。なお、この授業は、皆さんの報告を中心に進められ、教員である私は、皆さんのアドヴァイザーとして脇役に徹します。授業のなかでいちばん大事すべき要素は、自分の感性にもとづき、自分の意見を自分の言葉で述べることです。うるさいくらいでかまわないので、積極的に授業に参加し、どんどん発言をしてください。
  • 史学展開演習I(外国史), 2023, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学展開演習II(外国史), 2023, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学応用演習I, 2023, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学応用演習(外国史), 2023, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 史学応用演習II, 2023, この授業は、近代の中国・朝鮮・台湾・日中及び日朝関係等を含んだ東アジア地域、あるいは東南アジア地域の歴史的諸問題をめぐって卒業論文を書くつもりの学生を対象とするものです。授業のなかで皆さんに具体的にやってもらうのは、①複数の論文を講読し、それらの比較・分析・批判(すなわち、研究史の整理)をしたうえで、論文の題目を設定し、その構成を考える、②論文の題目にあわせて具体的課題を設定し、史料や文献を収集したうえで、それについての報告を行なう、③以上の内容を下敷きにして、卒業論文の中間報告を含めた複数回のレポートを執筆する、の三つです。授業の最終的目標は、これらの作業を通じて、卒業論文の「青写真」「設計図」をつくることです。なお、授業は皆さんの報告を主体に、皆さんを主役として進められます。教員である私の役割は、あくまでもアドヴァイザーの立場から、皆さんに助言する程度にとどめるつもりです。この演習において皆さんに希望することは、毎週の授業に積極的に参加し、自分自身の意見を自分自身の言葉で述べることです。
  • 東洋史概論II, 2023, この授業は、近代日中関係史上の特質と変化を、前近代から近代への連続性と非連続性に留意しながら、説明するものである。とくに、前近代の東アジア国際秩序原理となった冊封(朝貢)体制が近代になって崩壊し、それにかわる新秩序形成への模索が進むなかで、「アジアの盟主」を自任する日本の対中政策がそうした秩序形成にどのような影響を与えたのかという観点を、この授業では重視する。このため、前近代と近代との比較上、授業の前半では、前近代の東アジア国際関係史についても、できるだけ丁寧に説明していく。
  • 東洋地域史III, 2023, この授業は、中国史上最大の「漢奸」(=裏切り者、売国奴の意)といわれている汪兆銘(精衛)と彼がつくった政権(汪兆銘政権)を、中国史や東アジア国際政治史の大きな流れのなかに位置付けて理解しようとするものである。| 従来、汪兆銘は、日中戦争期に日本軍の占領下にある地域に政権を樹立したことから、戦後、「漢奸」として断罪され、その政権も中国人から正統性・合法性のある政権として理解されてこなかった。しかし、この世に生を受けた瞬間から裏切りものになろうとするものはいないし、たとえ裏切り者になったとしても、その人物が同時代の社会に与えた影響が皆無であるわけでもない。| この授業では、汪兆銘の人生の軌跡を丁寧に跡付け、彼がなぜ祖国を裏切るかたちになったのか、その思想や目的を明らかにしたうえ、汪兆銘政権がなぜ誕生し、中国社会や国際社会にどのような影響を与えたのかを考察していく。| そのさい、汪の思想や行動の歴史的意義を浮き彫りにするため、彼の政治的ライヴァルであった介石や毛沢東との比較・検討を行なう。介石・毛沢東の両者もそれぞれ自前に政権(現在の中華民国=台湾や中華人民共和国の前身となる政権)を持っており、それらと比較することで、汪兆銘の特質をよりいっそう明確にしようというのである。| この授業を「現代版三国志」と名付けたのも、そうした比較史的手法を用いることで、汪兆銘と彼の政権の歴史的役割を明らかにしたいとの意図があるからである。

オフィスアワーの実施時期・曜時

  • 2018

学外活動

学協会活動

  • 国史学会, 1989年04月
  • 史学会, 1999年04月
  • 東北アジア地域史研究会, 2012年12月
  • 東アジア近代史学会, 2013年04月
  • 東アジア近代史学会