万葉『いつ柴』考, 土佐秀里, 上代文学研究論集, 7, 2023年03月, 國學院大學大学院上代文学研究室
二人の門部王, 土佐秀里, 日本文学論究, 82, 2023年03月, 國學院大學国文學會
神樹と人妻, 土佐秀里, 國學院大學大学院紀要, 54, 2023年02月, 國學院大學
御民われ生ける験ありー天平六年の『詔』と『応詔』-, 土佐秀里, 國學院雑誌, 123, 9, 2022年09月, 國學院大學
聖徳太子の悲傷歌と大津皇子の流涕歌ー巻三挽歌冒頭部の形成と構想ー, 土佐秀里, 國學院大學紀要, 60, 2022年02月, 國學院大學
人麻呂歌集『庚辰年七夕歌』訓釈考, 土佐秀里, 『古代中世文学論考 第四十五集』, 2021年10月, 新典社
有間皇子の「挽歌」と田横の故事ー挽歌の「歌の意」と部立の構想ー, 土佐秀里, 國學院雑誌, 122巻, 5号, 1, 17, 2021年05月15日, 國學院大學
「靡合歓木」考ー万葉集巻十一・二七五二番歌の訓読再考ー, 土佐秀里, 上代文学研究論集, 5号, 35, 52, 2021年03月10日, 國學院大學上代文学研究室
古事記の「教覚」と「不覚」ー漢訳仏典の影響を中心にー, 土佐秀里, 古事記學, 7号, 155, 183, 2021年03月10日, 國學院大學古事記學センター
名づけと境界線ー上代文学における地図的思考の進展ー, 土佐秀里, 日本文學論究, 79冊, 1, 10, 2020年03月20日, 國學院大學國文學會
綿を詠む歌ー満誓はなぜ筑紫の綿を着られないのかー, 土佐秀里, 上代文学研究論集, 4号, 1, 16, 2020年03月10日, 國學院大學上代文学研究室
長田王「筑紫水島歌群」の地政学―景行天皇熊襲平定伝承の再生―, 土佐秀里, 國學院大學紀要, 58, 2020年02月01日, 國學院大學
「兎道のみやこ」考―額田王「宇治歌」と菟道稚郎子伝承―, 土佐秀里, 古代中世文学論考, 39, 2019年11月01日, 新典社
鸕野皇后の確信と懐疑―「召し賜ふらし」と「召し賜はまし」のあいだ―, 土佐秀里, 日本文學論究, 78, 2019年03月20日, 國學院大學國文學會
古代日本の蒐書と蔵書―日本上代文学形成の前提条件―, 土佐秀里, 國學院雑誌, 120, 2, 2019年02月15日, 國學院大學
講談社の絵本『大国主命』『日本武尊』の検討―昭和十年代における記紀受容史の一齣―, 『古事記學』, 4号, 2018年03月10日, 國學院大學古事記學センター
万葉「炎」字管窺―四八番「東野炎立」歌の訓読をめぐって―, 『上代文学研究論集』, 2号, 2018年03月10日, 國學院大學上代文学研究室
孤独な女帝の肖像―万葉集が語る元明天皇―, 『國學院大學紀要』, 56巻, 2018年01月31日, 國學院大學
天平元年の班田と万葉集―律令官人の言説と制度―, 國學院雑誌, 118巻8号, 2017年08月15日, 國學院大學
舒明天皇望国歌の構造と論理―「天」と「国」と「海」―, 『日本文学論究』, 76冊, 2017年03月20日, 國學院大學國文學會
奇物と異物―古事記の文字表現一例―, 上代文学研究論集, 1号, 2017年03月10日, 國學院大學上代文学研究室
「珠手次 懸けの宜しく」考, 『古代中世文学論考』, 33集, 2016年08月01日, 新典社
文武天皇「御製歌」存疑―文武朝の精神史一斑―, 土佐秀里, 『國學院雜誌』, 117巻4号, 2016年04月01日, 國學院大學
醜男醜女考, 『日本文學論究』, 75冊, 2016年03月01日, 國學院大學國文學會
苔のむすまで, 『古代研究』, 49号, 2016年02月01日, 早稲田古代研究会
夜の従駕者―赤人「吉野讃歌」と人麻呂「安騎野遊猟歌」の秘儀性―, 『國學院大學紀要』, 54巻, 2016年01月01日, 國學院大學
「近江天皇を思ふ歌」存疑―特にその〈虚無感〉の表出についての疑い―, 土佐秀里, 『古代中世文学論考』, 31集, 2015年10月01日, 新典社
表象/分節される「日本」―言説が作り出す「国」の境界線, シリーズメディアの未来6『空間とメディア』, 2015年06月01日, ナカニシヤ出版
「苦しくも零り来る雨か」考, 『古代研究』, 48号, 2015年02月01日, 早稲田古代研究会
「「やまとうた」と「男文字」―紀貫之から見た万葉集」, 『二松学舎大学論集』, 57号, 35, 59, 2014年03月01日, 二松学舎大学, 中世歌謡を代表する歌謡集『閑吟集』と、近世歌謡を代表する歌謡集『松の葉』とを比較検討することで、同じ「小歌」というジャンルが中世と近世とでどう変化したかということを考究した。その結果、楽器の変化とそれにともなう韻律の変化、また囃子詞の多様化などに時代相の違いが認められた。
「戦時下〈皇国神話〉の創成と普及―香川頼彦『家庭読本神代の話』をめぐって」, 『東アジア学術総合研究所集刊』, 第44集, 95, 120, 2014年03月01日, 二松学舎大学東アジア学術総合研究所, 最初の勅撰和歌集である古今和歌集には多くの「詠み人知らず」歌が入集しており、全体の半数を占めている。これらの作者未詳歌が、国風暗黒時代の伝承歌謡であったということを、古今両序の検討や、古今集の主流を占める恋部の検討、雑歌部の「翁」歌の検討、大歌所御歌などの検討を通じて論証した。
「「紫草のにほへる妹」考―万葉歌の表現論理一斑」, 『古代研究』, 47号, 1, 15, 2014年02月01日
「言語呪術の臨界―記述としての「天智挽歌群」」, 『二松学舎大学論集』, 56号, 1, 23, 2013年03月01日, 二松学舎大学
「『国体の本義』の〈神話〉」, 『東アジア学術総合研究所集刊』, 第43集, 1, 26, 2013年03月01日, 二松学舎大学東アジア学術総合研究所
「文学、あるいは継続する「教養」」, 『早稲田大学国語教育研究』, 32集, 9, 15, 2012年03月01日
「断片と縫合―書物『古事記』の神話/物語」, 『二松学舎大学論集』, 54号, 1, 17, 2011年03月01日, 二松学舎大学
「小学校国語教科書のなかの『古事記』」, 『東アジア学術総合研究所集刊』, 第41集, 45, 62, 2011年03月01日, 二松学舎大学東アジア学術総合研究所
「藤原不比等と大伴旅人―その詩的継承関係をめぐって―」, 針原孝之編『古代文学の創造と継承』, 296, 313, 2011年01月01日, 新典社, 大伴旅人の漢詩作品と和歌作品の語句や発想に、藤原不比等の漢詩作品の影響が色濃く見られることを指摘し、両者の文学的影響関係を、政治的関係と時代状況に結びつけることによって説明した。
「魔女の降誕―『竹取物語』論断章」, 『二松学舎大学論集』, 53号, 1, 17, 2010年03月01日, 二松学舎大学, 竹取物語のかぐや姫が、平安時代の社会常識を懐疑し、批評する存在であるということを、身体・美貌・婚姻・王権・不死の各項目に即して論じた。
「ボケる歌、突っこむ歌―万葉歌における応答の機能」, 『文芸と批評』, 10巻10号, 159, 164, 2009年11月01日, 万葉集における贈答歌の「答歌」の対話的機能を分析した。
「不在と現前―万葉歌の表現論理―斑―」, 『文芸と批評』, 10巻9号, 1, 11, 2009年05月01日, 万葉歌の表現上の特色が、実は現場依存的ではないことを指摘し、「不在」の対象への想起ということが表現の特質であるということを具体的な作品に即して論じた。
「『万葉集』はもっと面白い―「古典の読み方」を変える教材選択を―」, 『月刊国語教育』, 29巻2号, 22, 25, 2009年05月01日, 教科書の万葉集が戦前のアララギ派歌人の万葉観にいまだに強く拘束されていることを指摘し、叙景歌というとらえ方や「ますらをぶり」というとらえ方を脱した、新しい教材選択を具体的に提唱した。
「真間の手児奈と末の珠名―高橋虫麻呂の女性幻想/東国幻想」, 『二松学舎大学論集』, 52号, 1, 18, 2009年03月01日, 高橋虫麻呂の2作品、「真間の手児奈を詠む」歌と「末の珠名を詠む」歌は、東国の美女を題材にしているという設定上の共通点に加えて、題詞形式の共通点や語句の一致が見られることから、連作的構想をもって作られたものと考えられる。そして二人の女性の造形が対照的であり、かつ服飾・身体描写とそこから読みとれる性意識の対照性から、虫麻呂がこの二作品において表現したものが、男性貴族によって理想化された二つの典型的な女性像であり、そうした女性幻想が中央貴族による東国幻想と一致するものであることを明らかにした。
「文武天皇の漢詩―その歴史的背景と文学的意義をめぐって―」, 『日本漢文学研究』, 3号, 27, 46, 2008年03月01日, 文武天皇が懐風藻唯一の天皇詩人であることに着目し、その詩人的形成過程と、作品の特色および文学史的意義について論じた。若年の文武天皇が高度な漢籍の知識を身につけた背景には例外的な若年即位という事情が介在していたことを推測し、その知識教養が「述懐」詩に端的にあらわれていることを述べた。またそれ以外の詩作品がすべて詠物詩であり、それが懐風藻においては異端的位置を占めていることと、その理由を当時の日本における漢詩観の問題にからめて論じた。さらにその詠物詩が万葉歌と強い接点を有するものであることを明らかにし、そこに
「家持と童女―<禁忌の恋>という主題―」, 『二松学舎大学論集』, 51号, 1, 21, 2008年03月01日, 大伴家持と「童女」の贈答という異色の作品がもつ意味を明らかにすべく、上代文献における「童女」が巫女の意味を有していたことと、歌中のキーワード「はねかづら」が成女式ではなく成巫式に用いられたものであることを述べた。そして家持が童女に対してきわめて消極的な態度しか示しえないのは宗教的な禁忌の意識に基づくものであることを述べ、そうした「禁忌の恋」という主題選択の背景に坂上大嬢との「離絶数年」があることを論じた。
「「或本」と「一書」―古代日本における書物のフェティシズム―」, 『文芸と批評』, 10巻6号, 1, 10, 2007年11月01日, 万葉集にあらわれる「或本」や日本書紀にあらわれる「一書」などの異伝注記が、口頭の伝承としての異伝ではなく書物としての異本注記であることに着目し、そこに八世紀成立の書物群がはじめから成立の契機として抱え込んでいる〈書物の物神化〉の意識が投影していることを論じた。そしてその意識が中国を規範とする律令国家の思想に基づくものであることを明らかにした。
「坂上郎女「宴親族歌」の表現意図―大伴旅人への追懐」, 『国文学研究』, 148集, 63, 73, 2006年03月01日, 『万葉集』巻六には、大伴坂上郎女の「宴親族歌」が載る。この歌は、題詞および歌の前半の表現が、宴席歌であることを強く主張している。しかし、歌の後半では人の「死」に言及し、無常観を提示するという、明らかに宴の論理に背反する奇妙な発想を有している。この奇妙な表現は、同じく宴席で無常を歌った「讃酒歌」などの亡兄・大伴旅人の作歌活動をふまえることで、旅人への追懐の意をこめる意図をもって、大伴氏の親族宴に提供した歌であったと考えられる。
「東歌と仮名表記―差異の創出と可視化」, 『古代研究』, 39号, 17, 32, 2006年02月01日, 『万葉集』巻十四「東歌」は一字一音の仮名表記で書かれているが、それは東歌が「民謡」であることを示すものではない。しかも東歌の仮名表記は訓示表記を前提に作り出されたものではなく、そのほとんどが中央語から類推可能な音訛語にとどまっている。つまり東歌の「方言」とは、中央貴族が中央との文化的差異の指標として求めた表象に過ぎず、そして仮名表記は、その差異を可視化し顕示するための装置として機能するものであった。
「藤原麻呂贈歌三首の趣向―大物主神・彦星・八千矛神」, 『国文学研究』, 145集, 63, 73, 2005年03月01日, 『万葉集』巻四相聞には、藤原麻呂と大伴坂上郎女との贈答が記載されている。しかし、郎女の歌が高い評価を与えられているのに比して、麻呂の歌は歌群としての統一性が見られないとして、従来低い評価しか与えられてこなかった。たしかに一見したところでは三首の題材はばらばらに見えるが、しかし、三首にはそれぞれ神の妻問いに関わる神話・伝説が典拠として踏まえられていると見ることができるのである。つまり、麻呂の三首は連作的趣向を凝らしたものであると考えられるのである。
「独立と検束―森鷗外『舞姫』管見」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 38号, 19, 40, 2004年03月01日, 早稲田実業学校, 森鷗外の小説『舞姫』の発表時期は、自由民権運動の終息期にあたっており、また同時に帝国憲法発布の直前にもあたっている。主人公の太田豊太郎は、憲法制定へと至る法整備の任務でドイツに派遣されているが、「自由」と「独立」を主張して上司と対立し、免官されてしまう。しかし、そこでエリスと出会った豊太郎は、自ら「自由」と「独立」を獲得する機会から遁走し、ふたたび国家権力のもとに身を寄せることになる。そこに明治20年代における政治的主題があると論じた。
「歌の「記載」と「価値」―「詠歌甚多不勝載車」「拙劣歌者不取載之」の論理」, 『文芸と批評』, 9巻8号, 13, 23, 2003年11月01日, 『常陸国風土記』の歌垣の記事には、歌の記載を制限する旨の文言が見られる。また、『万葉集』巻二十の防人歌には、「拙劣歌」を記載しないという編集方針が注記されている。これらの言説は、歌が文字で記載されるべきものであるということを主張している点で共通性を有するものであり、本来音声であったはずの歌のあり方を完全に転倒させている。そこには、歌に「価値」を見出し、それを記録・保存するという新たな理念が形成されていると見ることができる。
「額田王「三輪山歌」の機能―天智朝における祭祀と歌」, 『国文学研究』, 141集, 11, 22, 2003年10月01日, 『万葉集』巻一に載る額田王の「三輪山歌」は、近江遷都という歴史的事態に際して作られた歌である。それが三輪山を歌うことから推測すれば、この歌が神事儀礼の場に供されたものであったと見るのが自然である。しかし、この歌は、ことごとく儀礼歌の様式に反する表現をとっており、祈願や祝意を述べず、悲哀の情を強く打ち出している。それは、この歌が儀礼では片付かない人々の不安や不満を代弁することで、結果的に儀礼を補完するという政治的な機能を果たすものであったことによるものと考えられる。
「漢字文化と歌集編纂―『万葉集』の編纂思想と時代状況」, 『文芸と批評』, 9巻7号, 1, 10, 2003年05月01日, 『万葉集』という編纂物は、歌の記載にとっては明らかに非合理的な書き方である「戯書」などの複雑で多様な表記を、あえて統一せず温存させている。人麻呂歌集略体歌のような筆録者の個性を窺わせる文字表記も、やはり原型が保たれていると見られる。また「題詞」についても形式が統一されておらず、不完全な形式の題詞も、あえて原型のまま温存されていると見ることができる。こうした編集方法は、漢字文化の時代にあっては、歌の文字表記や題詞にも創意と作品性があらわれているとの認識があったためだと考えられる。
「学校と恋愛―樋口一葉『たけくらべ』を読む」, 『月刊国語教育』, 22巻13号, 52, 55, 2003年03月01日, 樋口一葉の小説『たけくらべ』は、明治期に書かれた小説であるにもかかわらず、吉原周辺の風俗が多く描かれていることから、前近代的な江戸情緒の文脈において解されることが多い。しかしそこには発表当時の明治20年代の新しい風俗が実は細かく描かれている。そして小説の舞台は「遊郭」だけではなく、実は「学校」という近代的機関が大きな役割を果たしており、平等幻想を作り出しつつ選別・序列化を行う近代的学校の機能に、美登利の悲劇の根本原因があったと論じた。
「天皇挽歌の生成―〈叙情〉から〈儀礼〉へ」, 『古代研究』, 36号, 10, 27, 2003年02月01日, 人の死を歌う「挽歌」は『万葉集』に特徴的なジャンルであるが、天皇の死に対する歌が、挽歌の黎明期にのみ出現し、その後消滅してゆくという事実が指摘できる。それは、斉明朝前後に出現する生成期の挽歌というものが天皇周辺に占有された私的文化であったことにその理由があると考えられる。すなわち、初期の挽歌は天皇とその近親者のみを対象としており、作者もまたその近親者に限られている。王権儀礼の拡大に伴って専門歌人による儀礼歌が量産されるようになると、こうした「私的」な歌は消滅していったのである。
「儀礼言語の形成と持統朝―寿詞・誄詞と人麻呂儀礼歌の同時代性」, 『古代中世文学論考』, 7集, 5, 39, 2002年07月01日, 宗教改革の時代でもあった天武朝に続き、持統朝は天皇神格化という教養に基づく新たな王権儀礼を創出する時期となった。しかもその儀礼は、言語詞章を儀礼の中心的要素とするという点で、それまでの古代祭祀とは異なる新たな傾向を作り出したと考えられる。そこで新たに作り出された中臣大島の天神寿詞や当麻智徳の誄詞といった新たな儀礼言語が、人麻呂の宮廷儀礼歌と表現・発想において接点が認められるのは、それらが持統朝という時代に並行して出現し、相互に影響を与えあっているからだと見るべきである。
「酒造と神婚―神楽歌「酒殿歌」の発想と原義」, 『国文学研究』, 137集, 11, 22, 2002年06月01日, かつて酒は神聖な飲料であり、祭祀の場に供せられるものであった。従って、古代の儀式歌謡・神事歌謡には、飲酒の歓びを歌うものが多く見られる。ところが、神事歌謡である神楽歌のなかの「酒殿歌」は、飲酒を歌う神事歌謡とは異なる発想を有している。それはこの歌が本来酒造の歌であったことによるものである。酒の発酵・醸造が成功するためには、酒の神と巫女との「神婚」が成就されなければならないという古代的信仰観念が、当該歌謡の男女交合の表現を賚していると考えられる。
「文字の倒錯―古事記を〈書く〉こと」, 『文芸と批評』, 9巻4号, 1, 13, 2001年11月01日, 従来『古事記』の独特な表記・文体は、豊かな口誦性の反映として理解されてきた。しかし、その思い込みには根拠が無く、むしろ「文字」が巧みに作り出した差異であると考えられるのである。仮名表記の挿入や、声注の挿入は、いかにも音声言語がもとになっていると思わせるたまに古事記が意図した偽装であり、さらに序文に示された古事記成立の経緯とくに稗田阿礼の「誦習」という謎の行為もまた、伝承を偽装するという意志を貫徹させるために戦略的に配備されたものであるということを論じた。
「春秋競憐判歌の発想―脱呪術性と恋の喩」, 『国文学研究』, 135集, 1, 12, 2001年10月01日, 『万葉集』巻一に載る額田王の春秋競憐判歌は、春山の花と秋山の紅葉のどちらにより「憐」を認めるかということを判定した歌であるが、その判断基準には、聖地であるはずの「山」への侵入や、豊穣を予祝する「花」への軽視や、生命力を表徴する「青葉」への忌避というように、伝統的呪術的思考と背反する要素が数多く見られる。そしてその表現性には、恋愛的情緒を志向するという当時にあっては先端的な表現要素が見られるのである。つまりこの歌には天智朝における新しい宮廷文化の方向性が示されているのである。
「『セメント樽の中の手紙』と探偵小説―一九二〇年代の身体感覚」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 35号, 41, 49, 2001年03月01日, 早稲田実業学校, 葉山嘉樹のプロレタリア小説『セメント樽の中の手紙』は国語教材をしても取り上げられる機会が多い。この作品は労働者の過酷な生活や階級格差を主題とするプロレタリア小説として発表されたものではあるが、その残酷描写とくに身体破壊の感覚は同時代に雁行して出現した新興文芸の「探偵小説」にきわめて近似した一面があると考えられる。特に江戸川乱歩との奇妙な類似や接点、そして葉山自身の作家的資質などを再検討してみると、1920年代という同時代の文脈の中で、ジャンルを越えて対比する文学史眼が必要であると思われる。
「〈恋愛〉の発見―相聞の変容と七夕伝説の受容」, 『古代研究』, 34号, 32, 41, 2001年01月01日, 『万葉集』には「相聞」という部立があり、恋愛を主題とする歌が分類されていると理解されている。しかし、万葉の「相聞」は、はじめから恋愛感情を歌っていたわけではなかった。相聞の部における初期の歌には焦燥感や孤独感は無く、滑稽さが強調されている。つまり遊宴における笑いの歌が相聞の起点であったと考えられる。やがて、漢籍における七夕伝説が受容されることによって、「待つ恋の苦しみ」という恋愛感情がようやく主題化されるに至ったと考えられる。
「〈声〉の倒錯―中島敦『狐憑』の周辺」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 34号, 47, 55, 2000年03月01日, 早稲田実業学校, 中島敦の小説『狐憑』は、物語創作を主題とする作品である。主人公のシャクは、無文字社会における物語作者としての役割を与えられている。しかしそのあり方は、口頭伝承の世界の論理とは異なっており、文字の時代の思考に基づく「作者」として造型されている。口頭伝承の世界においては、文字がなくとも物語りは伝えられるのであり、また特定の「作者」は必要ではない。しかし中島敦が問題としているのは「文字」であり、また「作者」の固有名と人格である。つまりこの小説は作家中島敦自身の問題を語ったものと見るべきなのである。
「〈戦後文学〉としての柿本人麻呂―持統朝の精神史・序説」, 『古代研究』, 33号, 1, 21, 2000年01月01日, 万葉歌人柿本人麻呂が壮麗な儀礼歌を数多く作ったのは、持統天皇の御代においてである。しかし、持統朝の人麻呂作歌には、前代の天武天皇の存在と、天武即位の計器となった大乱の壬申の乱が、色濃く影をおとしている。天武朝に活躍の機会を与えられなかった人麻呂が、持統朝に至って「過去」を主題とするのはなぜなのか。それは、天武の神格化および壬申の乱の絶対化・神聖化というイデオロギー操作と政治的プロパガンダが、持統朝にこそ必要となった政治思想であったことに起因すると考えられる。
「歌うスサノヲ―歌の神話史/思想史」, 戸谷高明編『古代文学の思想と表現』, 73, 87, 2000年01月01日, 新典社, 『古事記』と『日本書紀』にはスサノヲ神が「八雲立つ」という歌をうたったという神話が記載されている。ほぼ同一の神話伝承に見える二つの記事ではあるが、スサノヲの歌は、古事記と日本書紀という異なる二つの書物のそれぞれにおいて、文脈的な機能と表現方法を異にしている。歌と物語を組み合わせることは文字記載によって開発された表現方法であり、当該記事も文字の「表現」の次元において解釈されなければならない。さらに、スサノヲの詠歌記事は平安時代以後の和歌の隆盛に伴って、新たな思想的意味を付与され、歌の起源神話へと読み換えられ
「大神高市麻呂の復権―その背景としての文武朝」, 『国文学研究』, 128集, 45, 56, 1999年06月01日, 大神高市麻呂は、持統天皇の伊勢行幸を諌止した気骨ある官人として歴史にその名をとどめている。高市麻呂に関しては、『懐風藻』の漢詩、『万葉集』の歌、『日本霊異記』の説話といった文学作品が存在するが、これらはいずれも彼の行幸諫止という行動を「忠臣」の行いとして評価・肯定するという方向性を有しているところに特色がある。失脚した高市麻呂は文武朝に至って復権の機会を与えられるが、これは高市麻呂をめぐる文学作品に見られるような「忠義」の行動として「諫」を奨励する儒教的思想が背景にあると考えられる。
「「ますらをぶり」と「たをやめぶり」-古典和歌の指導のために」, 『早稲田大学国語教育研究』, 19集, 23, 32, 1999年03月01日, 『万葉集』の歌が「ますらをぶり」であり、『古今集』の歌が「たをやめぶり」であるとする賀茂真淵の和歌史理解は、現代の国語教育の場にも浸透している。しかし、この言説は真淵が理想とする復古主義的イデオロギーを観念的に述べたものであって、万葉集の歌の実態とはかけ離れており、この語を用いて万葉の歌風を説明することは不適当であると考えられる。また、歌風の違いを性差の比喩で説明するところには、真淵の女性蔑視的発想が隠れており、その点からも学校教育の場で肯定的に紹介するべきではないと論じた。
「『李徴』と『人虎傅』、そして『山月記』-〈解釈〉の諸相」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 33号, 35, 52, 1999年03月01日, 早稲田実業学校, 中島敦の小説『山月記』の典拠として知られる唐代伝奇小説『人虎傅』であるが、実は『人虎傅』には大きく異なる二種のテキストが存在する。それらは作品名・作者名・成立年代を異にするが、それのみにとどまらず、内容・発想・表現方法と主題が大きく異なっている。従って両者は主題を異にする二つの作品として理解すべきであり、さらにそれを翻案した中島敦の小説『山月記』についても、単なる翻案にとどまるものではなく、原典とは異なる表現方法と主題を獲得した、独立した別個の作品として見なければならない。
「大宝元年の長意吉麻呂―紀伊行幸時「応詔歌」一首の背景」, 『古代研究』, 32号, 44, 53, 1999年01月01日, 『万葉集』巻九所収の大宝元年紀伊行幸歌群には、長意吉麻呂の「応詔歌」一首が含まれている。この歌は行幸従駕歌であり、天皇の詔に応えた歌でありながら、王権賛美の表現が全く見られず、むしろ讃美と背馳するような喪失感を歌っているところに問題がある。喪失感を歌うことは有間皇子謀反事件と斉明朝の紀伊行幸を想起させる効果があり、祖近には過去の政治的事件をも「文学」の素材として興趣の対象としてしまうような、文武朝独特の文雅趣味と文化政策の転換が反映していると考えられる。
「山上憶良のナショナリズム―万葉歌人のアジア体験」, 『アジアのなかの日本文学』, 135, 147, 1998年10月01日, 皓星社, 『万葉集』巻一には、山上憶良が遣唐使として唐に在った時の望郷歌が収録されている。この歌には「日本」という語が用いられているが、「倭」から「日本」へと国号が改められ、その新国号を唐に対して提示したのが、憶良が随行員に加わった大宝年間派遣の第7次遣唐であった。この30数年ぶりの遣唐使派遣は大宝律令完成による律令国家の完成を受けてのものであり、国号の制定は、この時始まる元号の制定と同じく、新国家建設という目標をもった新鮮な国家意識に基づくものであった。憶良の歌には、そうした歴史状況が刻印されていることを論じた。
「人麻呂挽歌の構造と視点―第三者視点の〈語り〉の技法」, 『国文学研究』, 124集, 12, 22, 1998年03月01日, 歌人柿本人麻呂は多くの挽歌作品を『万葉集』に遺している。しかもそれらは、皇族から無名の行路死人に至るまで位相を異にするさまざまな死者を対象としており、主題や表現も歌それぞれに多様な展開を示している。しかし、それらを構造的にとらえてみるならば、人麻呂の挽歌作品は、死者の身分階層等や死因等に関わりなく、すべて死者とその遺族を一対の関係として捉え、その関係を「語り手」が第三者的視点から叙述するという同一の構造を有していると見ることができるのである。
「『村の家』の「思国歌」―『古事記』倭建命伝承の影」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 32号, 13, 26, 1998年03月01日, 早稲田実業学校, 中野重治の転向小説『村の家』には、獄中の主人公が記紀歌謡の「思国歌」を口ずさむ場面がある。そこで、この場面が記紀歌謡を引用することの意味について考察を加えた。まず、『古事記』と『日本書紀』とではヤマトタケルの造型や描かれ方が異なり、「思国歌」の歌い手も機能も文脈的意味も異なっていることを確認した。その上で、『村の家』が依拠するのは飽くまでも『古事記』のヤマトタケル物語であり、両者の間には、父と子の対立を描く物語としての類似性と相違点があるということも指摘した。
「戦争と国文学者―藤田徳太郎とその周辺」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 32号, 1998年03月01日, 戦時下に軍国主義を鼓吹し、空襲で戦死し、戦後は戦争協力者として糾弾された国文学者藤田徳太郎の足跡をたどり、その思想形成の意味を探った。
「石中死人歌の構成―〈神話〉の解体」, 『古代研究』, 31号, 44, 60, 1998年01月01日, 『万葉集』巻二挽歌に収載される柿本人麻呂の「石中死人歌」は、長歌冒頭の国土讃美表現が冗長に過ぎ、構成上アンバランスに見えるという指摘・評価がなされてきた。しかし、国土讃美の表現は、「語り手」の過剰な期待感を表すものであり、その「神話」的イメージが、現実の前に崩壊してゆくという劇的な構成を効果的ならしむるための配置であると考えられる。また、「見れば」という措辞の繰り返しも、国見儀礼のパロディであり、やはり過酷な現実の前に神話が崩壊するという主題を表していると考えられる。
「『羅生門』、あるいは善悪の彼岸」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 30号, 35, 46, 1996年03月01日, 早稲田実業学校, 芥川龍之介の小説『羅生門』は高等学校「国語Ⅰ」のすべての教科書で教材に採択されている。そして最近の教材解釈では、当該作品を「下人が道徳的対立を乗り越えて老婆を倒し、盗人に成長する物語」と見る説が主流になりつつある。しかし本論は之に異を唱え、下人と老婆の「対立」の非道徳性と非対称性を指摘するとともに、最終的に下人は成長もせず、盗人にもなれず、むしろ語り手は、本文の変動に伴って下人の存在を否定してゆく方向へと傾斜してゆくということを指摘した。
「弓削皇子遊吉野歌の論」, 『古代研究』, 29号, 21, 35, 1996年01月01日, 『万葉集』巻三所収の弓削皇子作「吉野に遊す」歌は。神聖性・永遠性・祝賀性の表出を基本とする集中の他の吉野関係歌とは異なり、無常観を表出しているという点に特色がある。従来の説ではその原因を作者・弓削皇子の人生経験や個人的性格に求めるという見解が多く見られたが、あらためて当該歌の表現上の特色を確認すると、むしろそこには新知識としての漢訳仏典の表現・発送を摂取・翻案するという先端的で知的な実験性・遊戯性こそが看取されると考えられる。当該歌は春日王の神仙思想と一対で、知的遊戯性を持った歌として理解されるべきである
「『伊勢物語』第六段の教材本文」, 『早稲田大学国語教育研究』, 14集, 26, 34, 1994年11月01日, 『伊勢物語』の第六段、いわゆる「芥川」の段は、古来有名であり、現在でも高等学校の国語教科書に教材として採択される機会が極めて多い章段であるが、国語教材化される際にしばしば「後人注」とされる物語後半部が省略されるという問題がある。しかし一見興ざめに見えるこの部分こそが、『伊勢物語』という作品に統一性を与える方法なのであって、徒に「後人」による挟雑物と見做すべきではなく、むしろ「作者」の意図があらわれている「本文」であるということを、作品論と教材論の交差する観点から、問題提起的に論じた。
「「鎮魂」と神楽―宮廷御神楽の成立と展開(三)」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 28号, 15, 39, 1994年03月01日, 早稲田実業学校, 古代の儀式書において神楽が「鎮魂祭」と深く関わっていることから、古代における「鎮魂」の語義・訓義を明らかにし、それが「たまふり」と訓まれるべき語であることと、「たまふり」の意義が神霊を遊動させて活性化させることにあることを述べ、語義においても儀礼的意味においても、「鎮魂」と「神楽」がほぼ同義の呪術儀礼であることを明らかにした。
「催馬楽の成立年代と成立基盤」, 『古代研究』, 26号, 76, 91, 1994年01月01日, 平安時代の宮廷歌謡である催馬楽の成立時期については、従来は、奈良時代末期から平安時代のごく初期にかけての時期に成立する見方が通説的位置を占めてきた。しかしその諸説と根拠とを批判的に再検討した結果、成立年代は9世紀末ごろから10世紀はじめごろにまで繰り下げるべきであるという結論に達し、そして催馬楽の成立の背景には、唐風追随を脱して国風創生へと向かおうとする時代状況が決定的に関わっていると見るべきであるということを論じた。
『枕草子』における歌謡引用の諸相, 『文芸と批評』, 7巻7号, 1, 19, 1993年05月01日, 平安時代の随筆『枕草子』には、同時代の他文献、たとえば『源氏物語』などと較べて、多種多様な歌謡引用が見られることを具体的に検証した。他の文学作品は宮廷歌謡を代表する「催馬楽」の引用が中心となるが、『枕草子』はそれに偏ることなく、宮廷外の民謡・芸謡にも引用が及んでいる。そしてその多様性は、宮廷的規範性から逸脱しようとする枕草子特有の感性に起因するものであるということを論じた。また、枕草子の章段形式と歌謡の引用形式の相関性についても言及した。
「遊動する神座(下)―宮廷御神楽の成立と展開(二)」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 27号, 39, 65, 1993年03月01日, 早稲田実業学校, 前稿の結果を踏まえ、神楽とは「神座」を遊動させて神を楽しませることだと考えられることを述べ、カイヨワのいう「めまいの遊び」が宗教儀礼に深く関連していることを世界各国の事例をもとに具体的に確認した。そして神楽が宗教的陶酔をもたらす「めまいの遊び」の一種であり、神座の遊動こそが儀礼の中心的要素であることを宮廷神楽および里神楽の芸態に即して論じた。
「遊動する神座(上)―宮廷御神楽の成立と展開(二)」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 26号, 31, 55, 1992年03月01日, 早稲田実業学校, 神楽の語源が「神座」であるとする説が古くから行われているが、その説の妥当性を検証すべく、研究史をまとめるとともに、他の語源説を一つ一つ検証し、また音韻変化の妥当性や、「神座」の意味とその実例などについて細かく検討を加えた。その結果、「神座」が「神楽」の語源であるとする説が蓋然性が高いことを確認した。
「神楽と天の石屋戸神話―宮廷御神楽の成立と展開(一)」, 『早稲田実業学校研究紀要』, 25号, 33, 53, 1991年03月01日, 早稲田実業学校, 古事記・日本書紀・古語拾遺・先代旧事本紀に記載される「天の岩戸」神話の意味については諸説が行われているが、とくにウズメの歌舞については古代・中世において神楽の濫觴であるとする記述を多く見ることができる。そうした神楽起源神話という観点から当該神話を再検討し、宮廷御神楽との連続性と不連続性を明らかにすることを試みた。
「和歌と歌謡(二)―散文における歌謡の機能」, 『教育国語国文学』, 16号, 2, 34, 1989年02月01日, 早稲田大学教育学部国語国文学会, 古事記・日本書紀における歌謡引用、万葉集巻十六における歌物語の検討より始めて、平安時代の物語文学や日記文学などを材料に、散文文芸における歌謡の諸相を通時的かつ個別具体的に取り上げ、その表現機能について考察した。その機能には主として事実性と文芸性の二面があることを確認した。