「漢文教授ニ関スル調査報告」における普通文の影響について―「文法上許容スベキ事項」との対照を通して―, 佐川繭子, 日本漢文学研究, 19, 39, 53, 2024年03月29日, 二松学舎大学東アジア学術総合研究所日本漢学研究センター
『史記』との相違に見る『漢書』における鼂錯の造形について, 佐川繭子, 國學院雜誌, 124, 12, 1, 18, 2023年12月15日, 國學院大學
劉歆「移書譲太常博士」における学術―『史記』儒林列伝との対比を手がかりとして―, 佐川繭子, 國學院大學紀要, 59, 27, 44, 2021年02月14日, 國學院大學
「漢文教授ニ関スル調査報告」の基礎的研究, 佐川繭子, 日本漢文学研究, 14, 45, 62, 2019年03月29日, 二松学舎大学東アジア学術総合研究所日本漢学研究センター
劉歆『世経』の示す歴史認識について, 佐川繭子, 國學院雜誌, 117-11, 40, 56, 2016年11月01日, 國學院大學
ランゲージ・ラーニング・センター開設のコンセプト, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 6, 1, 13, 2015年03月10日, 國學院大學教育開発推進機構, 大久保桂子、松岡弥生子
劉歆「世経」における王朝交替について, 佐川繭子, 國學院雜誌, 第114巻第9号, 17, 29, 2013年09月01日, 國學院大學, 劉歆「世経」(『漢書』律暦志下所収)の王朝交替論の基づくところを考察し、五徳終始説に止まらないその特徴を論じた。「世経」に見える帝系と五徳終始説(相生説)は、先行する帝系と五徳終始説(相勝説)とは異なるが、それは根拠とした史料の選択に因る所が大きい。「世経」の相生の五徳終始説には瑞応は不要であるが、歴代の帝・王朝全て文献に根拠を求めており、史料に基づいて「世経」を記述している姿勢が現われている。また、禅譲のように明確な理念ではないが、武力に対置するものとして血統が挙げられていると言えよう。武力によって天下を取った場合、所謂放伐には血統は必要ではないというのが「世経」の認識である。
劉歆の三統説について, 佐川繭子, 二松学舎大学人文論叢, 第86輯, 56, 76, 2011年03月01日, 二松学舎大学人文学会, 劉歆の三統説について、その経学的解説のみならず三統暦の運用の実際を踏まえて、特色を論じた。三統暦(『漢書』律暦志所収)は、西漢末期に編纂された鐘律書の内容をある程度踏まえた上で、『春秋』(『左伝』)を解説すると同時に、太初暦の補訂を行ったものであると言える。三統暦における三統は、二つの内容に大別できる。一元四千六百十七年を構成する孟仲季の三統(一統千五百三十九年)という暦法上の運用法則と、抽象概念としての天地人の三統である。天地人の三統は五行相生の五色と暦法上の重要な規定である三統首日を呼び出す役割をしているが、それ自体が王朝交替の原理であったり、暦法上循環しているわけではない。また、劉歆の三統説は先行する三正説・三統説とは異なり、王朝の循環理論ではないが、それは孟仲季の三統の年数が具体的な王朝の年数に一体しないからであると考えられる。
関於漢代“二王之後”問題―漢家与経学, 佐川繭子, 方光華・彭林主編『中国経学論集』, 498, 515, 2009年10月01日, 中国・陝西人民出版社, 成帝期には殷と周の後裔を公と認定し、漢家にとっての「二王之後」が確立したが、新興学説であった三正説の構成要素に過ぎなかった「二王之後」が漢家に受容された過程をたどるとともに、「二王之後」の概念が三正説を離れて経書解釈の中に現れる様相を考察し、一学説が漢家との関わりを経て今古の別を離れて経学の中に組み込まれたと考えられる事例を論じた。
「「鐘律書」の十二律について」, 『二松学舎大学論集』, 第51号, 193, 216, 2008年03月01日
「西漢における「二王之後」について―三正説の展開と秦の位置づけ―」, 『二松学舎大学論集』, 第50号, 147, 168, 2007年03月01日, 三正説の一部を成す「二王の後を存す」という学説の漢代における理解・利用の状況を考察することによって三正説の展開の一端を窺い、その過程で漢家にとっての秦の位置付けが確定することを論じた。漢家にとっての「二王之後」とは、その説の登場時から殷・周の後裔を指し、成帝末期に公式に確立されるに至った。それは夏→殷→周→漢という推移を示し、三代の次に漢を置くことでもある。三正三統を現実に適応させた場合、夏殷周の三代に続く漢という推移が示され、秦は統一王朝としての存在を否定される。
光武帝による火徳堯後の漢再興について, 佐川繭子, 『後漢経学研究会論集』, 第二号, 89, 109, 2005年03月01日, 後漢経学研究会, 王莽によって建国された新を否定して再興した漢が、なぜ王莽が利用した漢火徳尭後説を利用したのかを考察した。新末・光武帝政権下の状況によると、漢火徳説と尭後説は先行研究が述べるような密接な関係にあるわけではなく、漢の再興に必要なのは漢火徳説のみである。一部の者は漢尭後説を信奉していたがそれは公式に認定されることはなく、漢尭後説には再興への必要性とは別の点で必要とされたことを指摘した。
「『史記』に見える循環史観」, 『二松学舎大学論集』, 第47号, 2004年03月01日, 『史記』は、作者司馬遷が生きた時代の一大事である太初改暦によって示された歴史認識のもとに書かれていることを論じた。改暦時に同時に行われた改制は五徳終始説に基づいており、黄帝(土徳)→夏(木徳)→殷(金徳)→周(火徳)→秦(水徳)→漢(土徳)という王朝交替の認識を示したが、一方で夏暦の採用が三正説との一致を見たことによって、夏正→殷正→周正→漢(夏正)という認識も可能になった。両説では秦の扱いが矛盾しているが、『史記』ではあくまでも別種の循環論として両説に従っているのである。
「後漢時代における社稷祭祀をめぐって─経学史観の造成─」, 『後漢経学研究会論集』, 創刊号, 2002年03月01日, 後漢時代には、制度上社稷祭祀の対象に伝説上の人物である句竜と棄とを配当することを定めた。この説は『左伝』他の経書緯書に依拠したものであり、前漢時代には一般的ではなかった。しかし、後漢時代の文献を調べると、前漢時代の伝説を受け継ぐ記事は少なく、殆どが同時代の制度に一致する見解を示しており、王家の示した社稷の伝説が、漢家尭後説や『左伝』の台頭等を背景として、同時代の経学・思想にも浸透することによって、前漢時代の伝説を払拭してしまったと考えられることを論じた。
「東漢における三礼の生成について」, 佐川繭子, 『二松』, 第15集, 2001年03月01日, 二松学舎大学大学院文学研究科, 三礼の概念そのものが鄭玄に出るか否かについて考察し、『儀礼』『礼記』『周礼』の三種の文献は鄭玄以前から並行して学習される傾向はあったが、その遠因は当時皇帝祭祀を規定するに当たり、当初から経と認定された『儀礼』にはその既述がないという性質上、『礼記』『周礼』による補完を求められたことにあると考えられ、三礼の概念の発生は当時に於いて必然に近かったと言えることを論じた。
「郭店楚簡『茲衣』と『礼記』緇衣篇の関係に就いて─先秦儒家文献の成立に関する一考察─」, 佐川繭子, 『日本中国学会報』, 第52集, 2000年10月01日, 日本中国学会, 湖北省荊門市の戦国期の墓より出土した竹簡のうち『茲衣』と呼ばれる文書と、それが関わるとされる『礼記』緇衣篇について、それぞれ成立についての考察を踏まえ、両者の内容の比較検討を行い、その位置づけを試みた。郭店本に遅れて『礼記』本が形成されていったと考えられるが、おそらくその過程で錯簡などによる文章の混乱を経て、戦国末期にはすでに二十五章の『礼記』本に近いものになったことを論じた。同時に、『礼記』緇衣篇と同一の篇を含むとされる『子思子』『公孫尼子』中の緇衣篇も『礼記』本に等しく、前漢時の三種の緇衣篇はすでに郭店本ではなく、『礼記』本に近いことを論じた。
「関於《三礼目録》」, 王振民主編『鄭玄研究文集』, 1999年10月01日, 3、関於《三礼目録》 鄭玄『三礼目録』について、その著録・輯佚・成立時期・題名の由来などの書誌解題、「周礼目録」「礼記目録」「儀礼目録」各自の内容の特色を概説した。併せて、鄭玄が『儀礼』については各篇を五礼に分属させながらも、それを『周礼』春官大宗伯に見える五礼の順次に合わせて再編纂することはせず、劉向の篇次に従っているのは、その合理性を尊重したからであろうことを論じた。
「中国古代に於ける郷飲酒の概念形成について-『儀礼』『礼記』の関係を中心に-」, 佐川繭子, 『日本中国学会報』, 第49集, 1997年10月01日, 日本中国学会, 『儀礼』郷飲酒礼と『礼記』郷飲酒義の関係を中心に、「三礼注」とその前との分離という観点から、郷飲酒の概念形成について考察し、地域集団で行われる飲酒の中の限定された型を記述したのが『儀礼』であり、それとそれに類する儀礼を指す郷飲酒の名が、儀礼本体を離れて郷人の飲酒という抽象的な概念を付与され、やがて鄭玄が『三礼注』を作るに至って新たな概念規定がなされたことを論じた。
「郷飲酒の概念形成について」, (修士論文), 1996年01月01日, 二松学舎大学, 郷飲酒とはいかに定義できるかを、『儀礼』郷飲酒礼と『礼記』郷飲酒義の比較および他文献に見える記述・漢代における郷飲酒の記録より検討し、『儀礼』郷飲酒礼は郷党で行われていた養老の意義を抽出できる飲酒を淵源として士大夫階級の礼へと昇華させた限定的な礼であること、それは儒家達によって郷党での年齢という秩序生成の原理を認識させるものという意義を与えられ、鄭玄の注によって新たに概念を与えられたことを論じ、あわせて『礼記』郷飲酒義の内容を明らかにした。
教育開発推進機構による遠隔授業支援について―令和2年度コロナ下の取り組み―, 佐川繭子, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 第13号, 130, 137, 2022年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構
レポート課題におけるルーブリック評価の利用についての省察, 佐川繭子, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 11, 22, 29, 2020年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構
「『白虎通』訳注・巻一 爵篇(六)」, 『中国古典研究』, 第52号, 62, 68, 2007年12月01日, 佐川繭子・井ノ口哲也, 班固の編集とされる『白虎通』巻一爵篇の一部分について、本文校訂・訓読・注釈・口語訳を施した。
「葛栄晋「明末清初の実心実学の価値観」」, 『実心実学思想と国民文化の形成』論文集, 2006年10月01日, 明末清初の実心実学の思想体型を構築した代表的な人物である王艮・何心隠・李贄・黄宗羲・唐甄について、その価値観の変化について論じた。(翻訳)
「魏宗禹「陳廷敬の実理思想について」」, 『実心実学思想と国民文化の形成』論文集, 2006年10月01日, 康煕時代の重臣である陳廷敬の思想の分析や歴史的貢献、康煕帝との関わりを論じた。(翻訳)
「『白虎通』訳注・巻一 爵篇(二)」, 『中国古典研究』, 第48号, 2003年12月01日, 班固の編集とされる『白虎通』巻一爵篇の一部分について、本文校訂・訓読・注釈・口語訳を施した。
「『馬王堆漢墓出土老子甲本巻後古佚書明君篇』訳注(三), 二松学舎大学馬王堆漢墓帛書研究会, 1998年03月01日, 漢代に抄写され1973年に湖南省長沙市の馬王堆漢墓から出土した帛書中の、整理上『明君篇』と名づけられた古佚書を章立てしたもののうち、第六章に厳密な本文校訂を行い、それに訓読・口語訳・詳細な注を施した。
「『馬王堆漢墓出土老子甲本巻後古佚書九主篇』訳注(四)」, 二松学舎大学馬王堆漢墓帛書研究会, 1996年03月01日, 漢代に抄写され1973年に湖南省長沙市の馬王堆漢墓から出土した帛書中の、整理上『九主篇』と名づけられた古佚書を章立てしたもののうち、第十五章に厳密な本文校訂を行い、それに訓読・口語訳・詳細な注を施した。
「『礼記』郷飲酒義と『儀礼』郷飲酒礼の関係について」, 第72回二松学舎大学人文学会大会, 1996年01月01日, 『儀礼』郷飲酒礼を解釈したとされる傾向にある『礼記』郷飲酒義について、両者の比較より、『儀礼』に同定できる礼及びそうではない郷飲酒について解釈したものであることを論じた。(口頭発表)
「馬王堆漢墓帛書『式法』の研究」」, 新出土簡帛国際学術研討会, 2000年08月01日, 於 中国・北京大学, 馬王堆漢墓帛書整理小組「馬王堆帛書『式法』釈文摘要」(『文物』総第530期)として公表された、占盤「式」の運用に関わると見られる七篇の古佚書に、訓読・注釈・口語訳を施した。
「後漢に於ける古文としての『周礼』の位置づけ, 第82回二松学舎大学人文学会大会, 2000年11月01日, 一般に礼の古文と解される『周礼』について、皇帝の関与する五経以外の学派の表彰、民間での学習状況などを踏まえて、後漢時代にあっては公的には五経の一である礼の古文との認識はなかったであろうことを指摘した。(口頭発表)
「後漢の礼学について─社稷祭祀をめぐって─, 後漢経学研究会第1回研究報告会, 2001年11月01日, 後漢時代に行われた社稷祭祀の対象をとりあげ、前漢の祭祀との相違点を踏まえ、制度に見える後漢時代の歴史観が経学に影響していることを論じた。(口頭発表)
「前漢における受命改制論について-三正・三統・三教・質文にまつわる言説を中心に-」, 後漢経学研究会第3回研究報告会, 2003年12月01日, 漢火徳説出現以前における受命改制論について、五徳終始、三正・三統、質文の諸説の提唱媒体とその内容を検討し、諸説の形成過程を考察した。(口頭発表)
「王莽と漢火徳堯後説」, 後漢経学研究会第5回研究報告会, 2005年11月01日, 王莽の新建国の際に利用された漢火徳説と漢尭後説は一般に劉歆の三統暦との関わりが指摘されるが、劉歆の説とは異なる点もある。その点を踏まえて、王莽にとっての漢火徳説尭後説の特色を考察した。(口頭発表)
「漢代的“二王之後”」, 第2回中国経学国際学術研討会, 2007年08月01日, 於 中国・西北大学, 成帝期には殷と周の後裔を公と認定し、漢家にとっての「二王之後」が確立したが、新興学説であった三正説の構成要素に過ぎなかった「二王之後」が漢家に受容された過程をたどるとともに、「二王之後」の概念が三正説を離れて経書解釈の中に現れる様相を考察し、一学説が漢家との関わりを経て今古の別を離れて経学の中に組み込まれたと考えられる事例を論じた。(口頭発表)
「「鐘律書」について」, 後漢経学研究会第7回研究報告会, 2007年12月01日, 『漢書』律暦志に収録されている「鐘律書」は、劉歆の編纂になるものであるが、元始年間に招集された鐘律の専門家の見解が反映されたものであり、西漢末期の鐘律学の集大成的性格を持つと考えられる。その内容は律度量衡及び暦法の多岐に渉るが、そこに見える三正説について、先行三正説との比較検討を通じて、その理論の特色を考察した。(口頭発表)
班彪、班固の漢火徳堯後説について, 國學院大學中國學會大会, 2014年06月22日, 『漢書』には、漢が火徳の王朝であり、劉氏は堯の後裔であるとの記述や認識が散見する。漢火徳説と漢堯後説は前漢末期に出現したと考えられるが、それらは主として緯書や劉向、劉歆、王莽、光武帝周辺、班彪、班固の言説として確認できる。今回の発表では、『漢書』の著者である班固とその父班彪の認識について考察し、その前提に相当する劉向、劉歆の説との比較検討を行う。
劉向は漢火徳堯後説を唱え、劉歆は漢火徳説を唱えている。『漢書』からは劉向父子が考えている漢火徳の証(符瑞等)は不明であるが、班彪父子はともに「神母夜号」の故事や劉邦が沛公となった時の旗の色等を挙げている。また、班固は『漢書』において漢堯後説をあくまでも私見として述べている。彼らの言説は史実の曲解、捏造と批判される傾向にあるが、彼らが組み立てた理論の基づく所や、それらが生まれた背景について考えてみたい。
『史記』における漢の受命について, 日本中国学会第68回大会, 2016年10月08日
HSK受験結果に見る中国語圏セメスター留学の学修効果について, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 7, 國學院大學教育開発推進機構, 2016年03月10日, 44, 51
「諫早市立図書館蔵諌早文庫漢籍目録」, 『漢籍─整理と研究』, 第11号, 2003年03月01日, 佐川繭子・清水信子・高山節也, 長崎県諫早市立図書館所蔵諌早文庫(藩政期鍋島藩の親類同格であった諫早家歴代当主を中心に収集された書物)のうち漢籍について書誌事項を記載した目録。
「多度津文化財保存会蔵林家旧蔵漢籍目録」, 『多度津文化財保存会会報』別冊, 2003年12月01日, 財団法人多度津文化財保存会所蔵多度津藩家老林家旧蔵諸資料のうち、漢籍及び準漢籍について書誌解題を記載した目録。
南開大学の校訓について, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 第3号, 2012年03月01日, 南開大学の校訓について若干の考察を行った。中国の大学には校訓がある所が多いが、ほとんどは似通ったものである。南開大学の校訓はそれらに比べて独創的であり、そこには創立者の一人である愛国教育家張伯苓の建学の理念が現れている。国のために有為の人材を輩出するという理念のもと、1934年に「公」「能」の校訓が定められ、それが現行の校訓「允公允能 日新月異」の形に定着した経緯は定かではないが、この二句も張伯苓の言説に見えているものである。
障害のある学生の学修支援に関する覚え書き―基本的概念について―, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 第5号, 國學院大學教育開発推進機構, 2014年03月10日, 障害のある学生の学修支援にあたっての基本的概念を確認する。文部科学省「障がいのある学生の修学支援に関する検討会」の報告では、「障害のある学生」とは「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にある学生」のことを言い、障害とは「身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害」を意味する。「障害」の内容は多様であるが、日本学生支援機構の調査によれば、高等教育機関に在籍する障害のある学生全員が支援を受けているわけではない。障害及び社会的障壁によって相当な制限を受ける者が支援を必要とするのであり、支援の現場では何が社会的障壁に相当するのか、それを除去するにはどうすればよいかを考えなければならない。また、障害者の権利に関する条約に示された合理的配慮という概念があり、支援の現場ではこの概念に沿って支援内容を検討する必要がある。精神障害のある学生の支援については、従来は障害に対して行うという認識がなされていない傾向にあり、今後の「障害のある学生」としての支援事例等の検討の進展が望まれる。