「日本側戦犯自主裁判構想の顛末」, 『軍事史学』, 338, 349, 1995年09月01日, 軍事史学会, 昭和20年、日本の降伏後、連合国側により構成されたいわゆる「東京裁判」その他において「戦争犯罪人」の裁判が行なわれたことは周知の事実であるが、この間、日本側にも戦犯の自主的裁判の企図があったことは断片的にしか知られていない。東久邇宮内閣期に端を発し、幣原内閣期に再浮上し、結局は水泡に帰した日本側戦犯自主裁判構想の顛末を政府部内の動向を中心に考察したものである。
「三上参次博士逸事考」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第76輯, 63, 74, 1995年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 明治中期から昭和初期にかけて歴史学界の指導者的立場にあった三上参次の事績に関しては、本人の『回顧談』一冊と高弟による追悼記二篇が知られている。だが、戦前に活躍し著名だった三上も、戦後の社会変動の中でその事績は忘れられて行く傾向にある。これは一面、三上を歴史上の人物として位置付ける環境が整ったことでもあり、本稿は戦後になってようやく利用可能になった諸史料を中心に、三上が果たした歴史的役割を検証したものである。
「昭和十五年大竹貫一怪文書事件」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 37, 54, 1996年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和十五年、前貴族院議員の大竹貫一が首相近衛文麿を激しく誹議する怪文書を頒布し、文書は発禁処分、大竹は検挙された。「近衛新体制」運動の過程では「革新派」と「復古派」の深刻な相剋があり、「復古派」の抵抗により運動は挫折・無力化したとの評価がある。大竹の背後にも、新体制を阻止・抑制しようとする勢力が存在し、その支持・画策もあって大竹は執行猶予処分で釈放される。本稿は、この大竹ら「憲法擁護派」の動向を手掛かりに、「近衛新体制」が所期の目的を達成し得なかった事情を検証したものである。
「皇室典範改正と外務省-条約局長萩原徹の活動を中心に」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 1, 34, 1997年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 日本が連合国に降伏した結果、皇室典範も改正を余儀なくされ、新たな皇室典範が昭和二十二年に公布される。新皇室典範の制定過程に関する実証的研究は少ない。したがって、その過程における外務省の果した役割については、ほとんど顧みられることがなかった。外務省は、憲法改正問題における対GHQ窓口となり、憲法改正から派生した典範改正問題についても少なからぬ関与を持った。本稿は、新典範成立の経緯を解明することを目的に、制定過程における外務省の役割を、条約局長萩原徹の活動を中心に検討したものである。
「第一回昭和天皇・マッカーサー会見と吉田茂」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 91, 132, 1998年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 第一回昭和天皇・マッカーサー会見は、日米両国間の意思疎通が不充分な占領最初期に、しかも天皇退位・戦犯裁判・憲法改正などの諸問題が微妙に絡み合う中で行なわれ、その成り行きは両国要路の注視するところであった。本稿は、第一回会見前後の客観情勢を辿り、主に日本側の意図したところを探り、とりわけ本件の中心人物の一人でありながら、従来全くその役割について言及されていない吉田茂の動向を手掛かりに、戦後初期に占める昭和天皇・マッカーサー第一回会見の位置付け・意味合いを検討したものである。
「『重臣ブロック排撃論者』としての久原房之助」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第83輯, 79, 93, 1999年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 「昭和天皇独白録」によれば、田中義一内閣の崩壊後、久原房之助が「重臣ブロック排撃」を唱え、やがて2・26事件に至るようにこの主張は「後々迄大きな災を残した」という。「重臣ブロック排撃」という主張そのものは、昭和政治史を分析する上でも有効な手掛かりとなる。本稿は、久原が「重臣ブロック排撃」を唱えるに至った経緯の実態を分析し、昭和前期政治史の一断面を考察したものである。
「昭和十九年久原房之助対ソ特使派遣問題」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第84輯, 49, 78, 1999年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和19年7月、戦局が苛烈化し敗色濃くなる中、東条英機内閣が退陣し、替わって小磯国昭内閣が成立した。本稿は、この小磯内閣期の和平工作の一環であった対ソ特使派遣問題を取り上げ、特に重臣主導で終戦工作が潜行する中、首相小磯が「重臣ブロック排撃論者」として知られる久原房之助を対ソ特使の筆頭候補に挙げ、やがて外相重光葵らの反対によって久原の起用が実現しなかった経緯を辿り、久原対ソ特使問題がもつ終戦史上の意義を検証したものである。
「重光葵外相の大東亜相兼摂」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第85輯, 121, 137, 2000年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和19年7月、小磯内閣が発足し、外相重光葵は大東亜省の大臣を兼任した。両相を兼摂した重光の意図は、一大臣のもとに両省を事実上合同することで「外交一元化」を実現し、出来得れば自らの手で和平を成就させることにあった。だが、重光の外務・大東亜両相兼摂に関する研究は、従来必ずしも充分とはいえない。本稿は、重光が外務・大東亜両相を兼摂した背後事情、就任前後の事実経過、兼摂の意図等について考察を行ない、もって終戦史の空白を埋めようという試みである。
「昭和十六年対米戦回避時クーデター説の検討」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第86輯, 1, 15, 2000年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, いわゆる「昭和天皇独白録」に「私が主戦論を抑へたらば・・・米国に屈伏すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう」というくだりがある。「独白録」公表直後、研究者等により対米戦回避時クーデター説の検討が若干行なわれたが、その後は、果して実際に対米戦回避時にクーデターが生起したのか、その可能性の有無、当事者の所見など、ほとんど検討されないまま今日に至っている。本稿は、極めて限られた史料に依拠しつつ、特に当事者の所見を中心に、対米戦回避時クーデター説を検討するものである。
「昭和二十年二月重臣拝謁の経緯と意義」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第87輯, 31, 46, 2001年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 終戦を半年後に控えた昭和二十年二月、元首相若槻礼次郎・同岡田啓介・同広田弘毅・同近衛文麿・同平沼騏一郎・同東条英機・元内大臣牧野伸顕、以上七名の重臣が単独拝謁し、各々戦局についての所見を上奏した。開戦以来「責任者以外、何人をも召されなかった天皇陛下が俄かに各重臣をお召しになった」(吉田茂)のであるが、その経緯と意義につき当事者・研究者の見解は従来区々であった。本稿は、本件を同年八月の「終戦の聖断」発動前史として捉え、これが実現に至った経緯と終戦史上の意義とを考察するものである。
「内大臣木戸幸一の辞職」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第88輯, 1, 12, 2001年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 「最後の内大臣」木戸幸一の辞職(昭和二十年十一月)は、歴代内大臣の辞任とは異例で、内大臣府自体の廃止と同時のことであった。昭和十六年十二月の日米開戦から終戦を経て、木戸が内大臣府の消滅と共に離職した事情に関する研究は、管見の限り見当らない。本稿は、木戸をして「最後の内大臣」たらしめた事情を探求するものである。
「参謀総長梅津美治郎と終戦」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第89輯, 1, 17, 2002年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和二十年の終戦において、「最後の参謀総長」梅津美治郎が果たした歴史的役割については、今から約四半世紀前に行われたシンポジウム「終戦を問い直す」で出席者からその重要性のみを指摘されていたが、今日に至るまで研究は進められていない。本稿は、そもそも梅津が参謀総長に就任した経緯に遡り、特に梅津と昭和天皇の関わりを中心に、上記梅津の歴史的役割を解明したものである。
「昭和史上の「責任」論をめぐって」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第90輯, 1, 13, 2002年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和史上の諸難局に関して当事者の「政治的責任」を問う声は高かった。また昭和史の中では様々な状況において当事者間の議論としての「責任論」が散見される。本稿は、その状況的議論の連鎖・応酬を分析し、人物・事件に対する「評価」とも関連する「責任論」から歴史を研究する意味合いについて改めて考えるものである。
「昭和天皇の「終戦」構想」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第91輯, 1, 18, 2003年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 「昭和天皇の『終戦』構想」とは、いわゆる「大東亜戦争」をいかに終結させるかについて天皇がどのように思考をめぐらせ発言し実行したか、ということである。「迂路」といわれる終戦工作の過程で、それは「一般的希望段階」から「具体的実行段階」へと、情勢と条件の変化に連れて、周囲の期待と天皇自身の決意を交錯させつつ、逐次慎重に進展していった。本稿は、今なお限られた関係史料に依拠しながら、出来るだけ昭和天皇の「終戦」構想の実相を解明しようと試みるものである。
「昭和十六年皇居内大本営防空室設置問題」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第92輯, 1, 14, 2003年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 「大東亜戦争」中、皇居内には三つの地下防空室があった。①宮内省庁舎地下の「金庫室」②吹上御文庫地下のいわゆる「御文庫地下室」③大本営用防空室の「御文庫附属室」である。政治的事変に際してこれら避難施設が転じて監禁所になるとの危惧が宮中の一部にはあり、皇居内防空室の設置・使用の経緯には、天皇側近と陸軍との微妙な関係が投影している。本稿は、特に大本営用防空室の設置を主題に、宮中と陸軍との関係という昭和史におけるきわめて機微な問題の一端を解明することを目的とするものである。
「昭和十六年皇太子避難計画について」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第93輯, 63, 74, 2004年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和十六年、諸防空施設が充分整備されぬまま国際関係が逐次悪化していく中、皇族の疎開は焦眉の急務であり、とりわけ皇太子の避難先確保は、対米戦を目前にして、喫緊の要務であった。だが、皇太子の避難については、従来昭和十九年五月の沼津疎開、同年七月の日光疎開以後の経緯が知られるのみで、そもそもどのようにして皇太子避難計画が策定されたのかは不明であった。本稿は、決定までに昭和天皇・宮内省・軍部の間で二転三転した昭和十六年皇太子避難計画の推移を辿り、対米開戦直前期における要路の混迷の一端を解明するものである。
「皇族参謀総長の復活-昭和六年閑院宮載仁親王就任の経緯-」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第94輯, 1, 23, 2004年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 陸軍参謀本部の本部長(=総長)については、明治31年までは皇族が務めていたが、以後33年間は臣下の者が就任していた。だが、昭和6年、満州事変が進展する中、閑院宮が総長となり、ここに皇族総長が復活した。本稿は、閑院宮が総長に就任する経緯を、危局への日本的対応としての皇族擁立運動の一環として捉え、陸軍の部内事情、海軍の連動、宮中を含む政界最上層部の動向、等々の分析を通して、多面的・実証的に解明したものである。
「米内光政内閣成立の経緯」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第95輯, 97, 114, 2005年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和15年の米内光政の首相就任については、昭和天皇の示唆をうけた内大臣湯浅倉平が重臣岡田啓介の協力を求め主導したことは通説化しているが、天皇の意向、内大臣の意図、岡田啓介の工作、元内大臣牧野伸顕の関与、等々、現在なお未解明の部分も多い。本稿は、これら諸点の解明を行ない、米内内閣が昭和政治史において占める特異な位置を考察したものである。
「宮内大臣松平恒雄の進退と政局」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第96輯, 1, 18, 2005年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 駐米大使・駐英大使を歴任した松平恒雄は、「二・二六事件」の直後、昭和十一年三月、宮内大臣に就任した。明治以来の歴代宮相の中で唯一の外交官出身者である。本稿は、その「親英米」の「外交官宮相」が、時勢が英米との戦争に傾斜していく中、異動や辞任等の風評・デマ、排斥の声、さらに暗殺の危機に直面しながら、終戦直前の昭和二十年六月に引責辞任するにいたる経緯を辿り、松平が九年余にわたり宮相に在任した意義を考察するものである。
「陸相東条英機の出現」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第97輯, 1, 16, 2006年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 首相東条英機の対米英開戦の責任、または東条を首相に推薦・任命した責任はしばしば議論されるが、その東条が首相兼陸相の前任たる第二次近衛文麿内閣陸相に就任した経緯・理由に関しては、なぜかほとんど研究されていない。本稿は、日本近代史を考察する上で不可避的に重要なこの東条の陸相就任問題につき、戦後の回顧によるところ大ではあるが、出来るだけその真相に迫り、東条が政治の大舞台に登場した経緯と理由とを解明しようとするものである。
「東条英機首相兼陸相の参謀総長兼任」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第98輯, 39, 52, 2006年09月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和19年2月、首相兼陸相の東条英機は参謀総長を兼任した。統帥独立の伝統を破るものとして、憲法上および政治上・運営上の諸点から疑義や懸念が示されたこの措置について、改めてその経緯を辿り、政治的反響の諸相を捉え、非常時におけるその歴史的意味合いを考察したもの。
「陸相阿南惟幾の登場」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第99輯, 1, 14, 2007年03月01日, 國學院大學日本文化研究所, 昭和20年4月、鈴木貫太郎を首班とする「終戦内閣」の陸相に就任した阿南惟幾の就任経緯を辿り、特に阿南と「名コンビ」と称された参謀総長梅津美治郎との関係、宮中・重臣の動向を軸として、陸相阿南が登場した事情を考察したもの。
「重臣岡田啓介の対米終戦工作」, 『政治経済史学』, 第500号, 2008年04月01日, 政治経済史学会, 終戦史上において元首相岡田啓介が果たした役割は、まことに大きいにもかかわらず、岡田の対米終戦工作に関する専論は管見のかぎり見当たらない。岡田の工作の全体像に迫ることは、日本近代史研究の上からも、極めて重要なことと思われる。本稿は、極めて限られた史料に拠りながら、岡田の対米終戦工作の全容を解明することを目的とするものである。
「平沼騏一郎の枢相再任と御前会議参列」, 『栃木史学』, 第26号, 2012年03月01日, 國學院大學栃木短期大学史学会, 昭和20年8月、終戦を決定した御前会議に平沼が枢密院議長として参列した経緯を辿り、終戦史上の平沼の位置付け、ひいては平沼像の修正を目的とする。
「軍令部総長豊田副武と終戦」
, 『國學院雑誌』, 第115巻第4号, 2014年04月15日, 國學院大學
「吉田茂、開戦前夜最後の対英親善工作」, 『中央公論』, 平成23年4月号, 2011年03月10日, 中央公論新社
「吉田茂と鳩山一郎の時代」, 『戦後復興への道のりー吉田茂・鳩山一郎ー特別展』, 3, 10, 2015年11月01日, 衆議院憲政記念館
「心を許した側近たち」, 『別冊REAL歴史 昭和天皇』, 124, 131, 2015年08月01日, 洋泉社
「吉田茂と大磯」, 『旧吉田茂邸落成記念企画展 吉田茂 その生涯と大磯』, 6, 7, 2017年03月01日, 大磯町郷土資料館
昭和天皇の「終戦構想」, 柴田紳一, 『週刊東洋経済』2019・9・14 通巻第6877号, 2019年09月09日, 東洋経済新報社
『吉田茂書翰 追補』, 2011年03月10日, 中央公論新社, 平成6年に財団法人吉田茂記念事業財団名で編集・刊行された『吉田茂書翰』未収録書翰からなる追補版。
吉田茂記念事業財団編『清水崑画 吉田茂諷刺漫画集』, 1989年06月01日, 原書房
吉田茂国際基金編『清水崑画 吉田茂諷刺漫画集』, 2005年09月01日, 中央公論新社
『井上毅宛明治顕官書翰集』, 107, 120, 2015年03月01日, 朝倉書店
吉田茂記念事業財団編『吉田茂書翰』, 1994年02月01日, 中央公論社
『梧陰文庫総目録』, 2005年04月01日, 東京大学出版会
『國學院大學図書館所蔵 佐佐木高行家旧蔵書目録』, 2008年03月01日, 汲古書院
『深沢暹関係文書目録』, 2005年03月01日, 國學院大學日本文化研究所
「『花房義質関係文書』について」, 『外交史料館報』, 第7号, 1994年03月01日, 外務省外交史料館
「『沢宣嘉関係文書』について」, 『外交史料館報』, 第8号, 1995年03月01日, 外務省外交史料館
「『林出賢次郎関係文書について』」, 『外交史料館報』, 第9号, 1996年03月01日, 外務省外交史料館
「阿部信行述『政治外交と軍部』について」, 『國學院大學図書館紀要』, 第8号, 1996年03月01日, 國學院大學図書館
「東条英機宛松岡洋右書翰について」, 『國學院大學日本研究所紀要』, 第80輯, 1997年09月01日, 國學院大學日本文化研究所
「松平康昌述『内大臣の政治責任』」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第78輯, 1996年09月01日, 國學院大學日本文化研究所
「新出の犬養毅書翰等について-西村茂生関係文書」, 『国史学』, 第195号, 2008年04月01日, 国史学会
「福島安正参謀本部第二部長訓示『列国ノ現状ニ就テ』」, 『軍事史学』, 第177号, 2009年06月01日, 軍事史学会
「岡部直三郎日記(昭和十三年・十四年):張鼓峰事件・ノモンハン事件とその前後」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第99輯, 2007年03月01日, 國學院大學日本文化研究所
「鵜沢総司「明治三十年児玉源太郎清国視察随行日記」」, 『軍事史学』, 第170号, 2007年09月01日, 軍事史学会
「鵜沢総司「日露戦争出征日記」」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第98輯, 2006年09月01日, 國學院大學日本文化研究所
「鵜沢総司「続・日露戦争出征日記」」, 『國學院大學日本文化研究所紀要』, 第100輯, 2008年03月01日, 國學院大學日本文化研究所
「新年特集「新書を語る 新書で学ぶ」私のおすおすめ」, 『日本歴史』, 第812号, 2016年01月01日, 吉川弘文館
「史料としての吉田書簡」, 『読売新聞』, 2011年03月14日, 読売新聞社
「推薦の辞」, 高橋勝浩編『本多熊太郎関係文書』, 2018年05月01日, 国書刊行会
吉田茂記念事業財団編『人間 吉田茂』, 中央公論社, 1991年08月01日, 麻生和子、五百旗頭真、上西淳三、北岡伸一、栗原健、桑原翠邦、坂本夏男、佐古丞、佐藤元英、下田武三、庄司潤一郎、照沼好文、戸部良一、野村乙二朗、萩原延壽、波多野澄雄、林知彦、平間洋一、法眼晋作、堀江薫雄、松井明、御巫清尚、村川一郎、村島滋、吉村道男、渡邊行男, 元内閣総理大臣吉田茂の89年にわたる生涯と業績を、じかに親しく接した人々による回顧手記と、研究者による論文とで、多角的に検証した書物。第1部「人と思想」(教養・家系・交友の3篇に12論文)、第2部「外交と政治」(戦前・戦後の2篇に14論文)、第3部「追想と資料」(追想・資料の2篇に12記事)からなる。
梧陰文庫研究会編『明治国家形成と井上毅』, 木鐸社, 1992年06月01日, 大石真、木野主計、栗城壽夫、小林宏、阪本是丸、島善高、高塩博、瀧川叡一、田嶋一、多田嘉夫、中島昭三、原田一明、福田須美子、前田英昭、山下重一, 「明治国家のグランドデザイナー」と評される井上毅の広範囲におよぶ活動と思想や、彼の周辺すなわち同時代の諸問題や彼に影響を与えた事件・人物・風土につき、政治史・法制史・政治思想史・教育史・宗教史・憲法学など多岐にわたる専門家16名が梧陰文庫研究会で報告・討論した成果をもとにまとめられた共同研究。
藤波家文書研究会編『大中臣祭主藤波家の歴史』, 続群書類従完成会, 1993年03月01日, 岡田荘司、佐藤真人、平井誠二、藤森馨、森瑞枝, 大中臣祭主藤波家は、明治の初めまで伊勢の神宮祭主として祭祀に奉仕してきた由緒ある家であるが、これまで学界未見ともいうべき「藤波家文書」が國學院大學日本文化研究所に提供されたことを契機に、同所のスタッフによりまとめられた共同研究。「総論・藤波家とその歴史」、「古代の大中臣祭主家」、「中世の大中臣祭主家」、「近世の大中臣祭主家」、「藤波言忠伝」、「大中臣氏と和歌」、「大中臣氏の造寺と通海」の7編からなる。
『昭和期の皇室と政治外交』, 柴田紳一, 原書房, 1995年08月01日, 昭和期の政治外交と昭和天皇・皇族との関わりを主題とした論文集。全12章。「田中義一内閣の対中国政策と昭和天皇」、「昭和十一年五月開院式勅語について」、「昭和史における戒厳令問題」、「昭和十二年秩父宮訪独問題」、「日独伊三国間単独不講和協定締結問題」、「『対支新政策』の決定と若杉参謀(三笠宮)の中国派遣」、「昭和十九年近衛文麿中国派遣構想」、「松代大本営建設の政治史的意義」、「昭和史上の『聖断』待望論をめぐって」、「『皇族内閣』の成立」、「対日講和条約準備段階における『C作業』について」。
『開戦と終戦』, 情報文化研究所, 1998年10月01日
『大中臣祭主藤波家の研究』, 続群書類従完成会, 2000年03月01日
『井上毅とその周辺』, 木鐸社, 2000年03月01日
『日本近代史研究余録ー人物・史料・書物・読書ー』, 渡辺出版, 2009年09月23日, 副題にあるテーマの小文全44篇を、「第一部 人物篇」(11篇)・「第二部 史料を通じて」(13篇)・「第三部 書物と読書」(20篇)に分けて収録したもの。
『歴史としての吉田時代』, 中央公論新社, 2009年09月01日, 財団法人吉田茂国際基金による公開シンポジウムの記録
『昭和史講義』(ちくま新書), 筑摩書房, 2015年07月01日
『井上毅と梧陰文庫』, 汲古書院, 2006年02月01日
「柴田紳一氏」, 政策研究大学院大学, 1999年03月01日