「上代文献にみる「吉野」の位相」, 渡邉卓, 『万葉古代学研究年報』第22号, 2024年03月22日, 奈良県立万葉文化館
「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」, 渡邉卓, 『日本書紀と出雲観』, 2021年03月31日, ハーベスト出版
「国学者による『日本書紀』研究の展開―荷田春満から賀茂真淵、本居宣長へ―」, 渡邉卓, 『神道宗教』第259・260号, 2020年10月01日, 神道宗教学会
「『神道要語集』にみる『万葉集』の位置づけ―河野省三の解説を中心に―」, 渡邉卓, 『神社本庁総合研究所紀要』第25号, 2020年06月01日, 神社本庁
「植木直一郎の「古典研究」と皇典講究所・國學院」, 渡邉卓, 『近代の神道と社会』, 2020年02月01日, 弘文堂
「皇典講究所・國學院と『古事記』」, 渡邉卓, 『國學院大學研究開発推進機構紀要』第10号, 2018年03月01日, 國學院大學研究開発推進機構
「霧島神宮の創始―天孫降臨神話の聖地―」, 渡邉卓, 『霧島神宮誌』, 2019年09月19日, 霧島神宮
「『先代旧事本紀』と祭祀―『釈日本紀』にみる呪力の受容―」, 渡邉卓, 『先代旧事本紀論―史書・神道書の成立と受容』, 2019年08月31日, 花鳥社
「『釈日本紀』にみる『古事記』の価値」, 渡邉卓, 『「記紀」の可能性(古代文学と隣接諸学10)』, 2018年04月01日, 竹林舎
「大山為起『味酒講記』諸本の発生―事蹟顕彰としての書写活動―」, 渡邉卓, 『読書―人・モノ・時空―』, 2018年03月01日, 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館
「上代文献を訓読するということ―『日本書紀』を中心として―」, 『万葉集と東アジア』, 1, 131, 135, 2006年03月01日, 万葉集と東アジア研究会, 『日本書紀』の訓読姿勢から国学的なものの発生を論じた。『日本書紀』に訓注があることからも、自国語でも読むことができる作品と位置付け、自国語でも多国語でも理解できたことを述べた。漢文体の『日本書紀』を訓読することは倭語と漢語の共存であり、漢語主体の当時にあっても訓読によって日本文化を表現していたことを意味する。これは自国を重んじる国学の考え方と共通するものである。訓読の歴史は発生と共にあり、『日本書紀』研究は継続され様々な訓読文も登場している。『日本書紀』の訓読史を繙くと、上代から国学的な意識が認められる。したがって、近世における国学者の研究活動はそれまでの研究成果としても位置付けられるとした。
「荷田春満と賀茂真淵の『日本書紀』研究―訓読研究を中心に―」, 『國學院雑誌』, 第107巻第11号, 259, 275, 2006年11月01日, 國學院大學, 荷田春満と賀茂真淵の『日本書紀』研究を訓読を中心として比較検討した。荷田春満は『日本書紀』を仮名書きし、「仮名日本紀」を記している。この「仮名日本紀」は従来の研究史にみられる「仮名日本紀」と称される文献の系統に属するものではなく、春満独自の訓が含まれる『日本書紀』の訓読文であることを述べる。一方、賀茂真淵は『日本紀訓考』を記し、『日本書紀』の訓を明らかにしようとしている。これら二人の訓読に関する執筆を通して、近世期における『日本書紀』研究の一端を明らかにした。具体的には、『日本書紀』巻三の神武紀のニギハヤヒの登場場面を対象として、検討を行った。比較の結果、ニギハヤヒには解釈の違いが見られたが、清濁を意識するなど共通した行為もみられた。春満本、親盛本には春満の古訓を重んじつつも、必ずしも従来の訓みを継承していないところも見られた。また真淵は、積極的な訓みを行っており、古訓を尊重するよりは、むしろ『古事記』を中心とした訓みになっていた。二人の訓の違いは『日本書紀』の解釈に違いがあったといえる。
「荷田春満自筆漢字仮名交じり「仮名日本紀」の位置づけ―諸本との比較から」, 『文学研究科論集』, 34号, 1, 11, 2007年03月01日, 國學院大學大學院文学研究科, 荷田春満の「仮名日本紀」は「自筆漢字仮名交じり本」「自筆平仮名本」「春満著述親盛本」「総片仮名本」の四種が確認されている。その中で「自筆漢字仮名交じり本」には春満訓が確認できず、また現存する「仮名日本紀」の諸本系統に準ずる可能性が高いと判断できる。本稿では「仮名日本紀」とはどんな文献であるのかを確認した上で、漢字仮名交の自筆本が「仮名日本紀」の諸本の中でどのように位置づけられるのか、そして諸本との関係から春満の『日本書紀』解釈の形成の一端を論じた。現存する「仮名日本紀」のなかで、最善本とされる伝国賢・種忠筆本(國學院大學蔵)を出発点として諸本の検討を行った。それらの中に目録を有している「仮名日本紀」の系統があり、その流れに春満自筆本が位置づけられるとした。なかでも、賀茂別雷神社蔵の三手文庫本に注目して系統を論じた。また三手文庫から、今井似閑と春満の関係についてのべ、ひいては、似閑の師である契沖と春満の説の関係を述べた。
「近世儒学と国学の復古思想―荻生徂徠と荷田春満を中心に―」, 『万葉集と東アジア』, 2, 103, 107, 2007年03月01日, 万葉集と東アジア研究会, 儒学と国学の関係は、研究者それぞれの学問の性質から論じられることが多かったが、多くの先行研究によれば、国学者は儒学者の研究方法に影響を受けたという。この儒学による国学への影響は、荻生徂徠の古文辞学の影響という点において特に論じられてきた。そこで本稿では、同時代の儒学者と国学者の研究方法はどのようなものであったかを、荻生徂徠と荷田春満を取り上げて検討した。同時代の徂徠と春満の学問を見ると、類似した学問の手法があるといえる。人が互いに生きた、元禄・享保期という、江戸前期の華々しい時代は、学問の新しい改革の時を迎えており、まさに春満と徂徠が取った類似した学問の手法は、偶然の一致によるのではなく、東アジアの学問体系が及んだ近世期の学問として見ることが出来ると論じた。具体的には中国の明に起こった古文辞学を受けたものであり、儒学の注釈学を持ち込んだともいえよう。「国学」「儒学」が扱ったテキストの違いはあるが、そこには近世以前からの儒学の流れ、また大陸からの方法論が導入されていたとする。
「荷田春満の『日本書紀』研究と卜部家との関わり」, 『古事記年報』, 50号, 114, 134, 2008年01月01日, 古事記学会, 荷田春満の『日本書紀』研究の成立について論じた。天理大学図書館所蔵の『卜部神代巻抄』上巻の伝授系統に春満が名を連ねていることから、卜部家の学問と荷田春満との間に関係性があることを指摘し、具体的にその関わりと影響関係を述べた。また春満の師とされる奥村仲之の説と、卜部説、そして春満の『日本書紀』解釈を比較して、春満の論の特徴を述べた。考察は、それぞれの『先代旧事本紀』論、「一書」論、「凡三神」の解釈、訓読姿勢の四点から考察を行った。その結果、奥村を介して卜部家の説が伝授によって春満にもたらされているほかに、文献を介して卜部家の説が春満に影響している場合もあった。だが春満の説は、すべてが卜部説によるものではなく、既存の説の範疇を超えて、新たなる『日本書紀』解釈を行っている箇所も確認された。これによって、春満は卜部家の学問に影響を受けながらも、独自の解釈として発展していっていることを指摘した。
「『日本書紀』注釈と「抄物」」, 『万葉集と東アジア』, 3, 125, 129, 2008年03月01日, 万葉集と東アジア研究会, 中世期においては『釈日本紀』の他にも、卜部家を中心として『日本書紀』の注釈活動は進められていった。しかし卜部家の注釈物に目をやると「~抄」という注釈本を多く確認することができる。この「~抄」という注釈物は一般的に「抄物」と呼ばれ、主に室町時代から江戸時代にわたって成立した。「抄物」は、日本で作られた熟語である。本稿では、注釈書とされる「抄物」を主眼として、『日本書紀』の注釈方法と「抄物」との関係を中心として、「抄物」が『日本書紀』の注釈史にどのように位置づけられるかを論じた。「抄物」の作成には、五山文学の禅僧や博士家の学者が関わっており、それが吉田家の家の学問と出会うことにより、『日本書紀』の注釈方法に変化をもたらしたとした。また「~抄」という名称で『日本書紀』注釈が行われたことについては、注釈方法が漢籍を理解するために必要とされたシステムと同様であったたからであり、『日本書紀』を注釈するために成立したものではなく、漢籍を理解するために生まれたシステムが用いられたと論じた。
「『先代旧事本紀』偽書説の歴史」, 『歴史読本』, 53巻12月号, 74, 79, 2008年12月01日, 新人物往来社, 中世神道説などに於いて「三部の本書」として『古事記』『日本書紀』と並んで重んじられていた『先代旧事本紀』が、偽書として扱われるようになった経緯について論じた。平安から中世にかけての『先代旧事本紀』の扱われ方を確認したうえで、近世からの研究の成果を述べた。また『先代旧事本紀』を模した偽書が出版され、『先代旧事本紀』のも疑いのまなざしが向けられるようになった。また考証学の発展から、水戸藩による本文校訂の研究の成果のなかで『先代旧事本紀』が疑問視されるようになった。そして、国学者が登場することによって、更に『先代旧事本紀』は偽書として扱われるようになった。国学者で最初に偽書説を説いたのは荷田春満であり、後の賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤も偽書説を説いた。また、多田義俊と伊勢貞丈が『先代旧事本紀』を偽書として一蹴したことを述べ、これらの説が、『先代旧事本紀』の価値を決定づけたと言える。これら近世の研究が近代に受け継がれ、今日の『先代旧事本紀』研究の基盤をなしていることを述べた。
「三矢重松と武田祐吉の関係―武田来簡を中心として」, 『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』, 第1号, 327, 337, 2009年03月01日, 國學院大學伝統文化リサーチセンター, 國學院大學で教鞭を執っていた三矢重松と武田祐吉の関係を、武田の来簡から論じた。これまで三矢と折口信夫の関係は論じられていたが、武田とも三矢は交流が深かったことが書簡の内容から明らかとなった。三矢が武田の就職や転職を支援していた書簡からは、三矢が武田の能力を高く評価しており、三矢の働きによって武田は研究職に就くことができたようである。また、武田が三矢の依頼で折口と出版社との間を取り持ったことなどが記されており、三矢と武田の関係の他に折口と二人の関係も垣間見ることとなった。またこれら書簡から、当時の学界や國學院の様子も併せて明らかとなり、書簡が歴史資料や校史資料としての価値を有していることも示した。
「橘守部の『先代旧事本紀』研究―『稜威道別』との関わりを通して―」, 『青木周平先生追悼 古代文芸論叢』, おうふう, 501, 511, 2009年11月01日, 橘守部の『先代旧事本紀』研究の変遷を、年代や守部の研究活動の過程から論じた。守部も早期の著述では『先代旧事本紀』を偽書として見なしていたが、『日本書紀』研究を進め『稜威道別』を執筆するなかでその価値観を改めていった。『稜威道別』稿本に『先代旧事本紀』の引用はないが、完成稿には多くを論の根拠として引用している。守部の『先代旧事本紀』は短期間で行われており、その成果は注釈書としての『旧事紀直日』と『稜威道別』に反映されている。これらの執筆は同時に進められていたと考えられ、総合的に古典を捉える態度が守部にはみられた。
「武田祐吉の『日本書紀』研究―新出資料と著作を通して―」, 『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』, 第2号, 215, 223, 2010年03月01日, 國學院大學伝統文化リサーチセンター, 武田祐吉の『日本書紀』研究の態度を、武田の著作などから論じた。武田は万葉集を中心とした上代文学研究者として知られるが、三矢重松との書簡から武田は『日本書紀』の訓読に早くから興味を持っていたようである。漢字で書かれている『日本書紀』を、武田は「純粋な国語」として捉え訓読の必要性を述べている。そのため武田の訓読には過去の助動詞「き」を用いるなど時制を重んじる態度が認められた。これと同様の訓読文は他にないが、この態度は本居宣長の『古事記』の訓読に類似しており、宣長が「やまとことば」を重んじていたことは、武田の「国語」として捉える見解と共通するものである。これにより、武田の『日本書紀』研究を国学者の研究の延長線上に位置づけた。
「折口信夫の「日本紀の会」と『日本書紀』研究」, 『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』, 第3号第2分冊, 265, 274, 2011年03月01日, 國學院大學伝統文化リサーチセンター, 折口信夫が戦後に主催した「日本紀の会」における折口の『日本書紀』講義から、折口の『日本書紀』解釈の特質を論じた。折口は『日本書紀』を正面から扱った論考があまりないが、講義録からは折口の直感による本文校訂や、あるいは「まれびと」論から生じた訓読など、折口独自の新解釈が認められた。これらの説のなかには、今日の研究からみた場合に的を射ているものも少なくなく、「まれびと」訓などは武田祐吉の『日本書紀』の訓読にも影響を与えていることが明らかとなった。折口の説はそれまでの研究史・訓読史にとらわれないものであり、たとえ仮説であったとしても折口の信念と知識に裏付けされた説であった。
「橘守部手沢本『先代旧事本紀』と『旧事紀直日』」, 『國學院雑誌』, 第112巻第4号, 15, 28, 2011年04月01日, 國學院大學, 國學院大學の宮地直一コレクションに所蔵される橘守部手沢本『先代旧事本紀』から、守部の『先代旧事本紀』研究の方法を論じた。守部手沢本は寛永版本であり、本来あるべき序文が切り取られ改装されている。これは守部が序文を衍文として判断する説と合致するものである。また手沢本の書き入れの多くは度会延佳の『鼇頭旧事紀』によるものであり、卜部系の寛永版本と伊勢系の『鼇頭旧事紀』とを校合することで、より正確な本文を作成しようとした。手沢本を介して、延佳の説が『旧事紀直日』へと反映され、延佳よりもより発展的な解釈を守部は進めている。守部の研究成果が『旧事紀直日』であり、その基礎となったのが手沢本と位置づけた。
「清原宣賢「日本書紀抄」の注釈法と伝播―諸本の比較を通して―」, 『神道宗教』, 第222・223号, 73, 97, 2011年07月01日, 神道宗教学会, 室町期を中心として成立した『日本書紀』の注釈書である「日本書紀抄」のうち、清原宣賢によるものを取り上げ、その註釈方法の発生と展開について、現存する諸本から考察した。清原宣賢による「日本書紀抄」は、早い時期に成立した〈先抄本〉と後に成立した〈後抄本〉とに分けられるが、〈後抄本〉は、それまでの卜部家(吉田家)を中心として成立した「日本書紀抄」とは異なり、卜部家の『日本書紀』本文を注釈内に明記していた。この行為は、それまで講義の聞書としての要素が強かった「日本書紀抄」という注釈書から、文献注釈へと転換したことを物語る。〈後抄本〉は清原家から兼右に譲与されるために編纂され、兼右はそれをもとに、講釈を行い兼右による新たな「日本書紀抄」を作成した。このような伝来の一方で、宣賢の〈後抄本〉は、清原家の中でも書写され後世へと伝わり、清原家でも宣賢から子息の業賢、孫の枝賢へと伝わって講釈に利用されていた。これは、吉田家の学問としての「日本書紀抄」が存在する一方で、宣賢の〈後抄本〉としての『日本書紀』注釈に権威があったことを示すものと位置づけた。
「青年期における荷田春満の『日本書紀』研究―東丸神社蔵『神代聞書』翻刻を通して―」, 『新国学』, 復刊第3号(通巻7号), 33, 52, 2011年10月01日, 國學院大學院友学術振興会, 青年期における荷田春満の『日本書紀』研究を、春満自筆の『神代聞書』から論じた。春満が23歳の時に著した『神代聞書』は晩年説と異なる点も多いことから、その注釈内容は奥村仲之の影響下にあるものであった。このことから仲之との関わりが、春満の『日本書紀』研究の出発点であったとした。また『神代聞書』は講義録としての性格が強く、中世以来の「抄物」の範疇にある注釈と位置づけ、そこから仲之の代講者として神代巻の講義を行う春満の姿を見出すことで、伝授による学問の継承を指摘した。だが、後に春満は門人たちに講義をするほかに注釈書を著しており、春満は伝授による継承と文献を介しての継承の二つの方法論を用いていたことを示唆した。
「国学者の業績展示と社会的意義―昭和初期における荷田春満遺墨展を中心に―」, 『國學院大學博物館學紀要』, 第36輯, 13, 20, 2012年03月01日, 國學院大學博物館学研究室, 昭和初期における荷田春満に関する業績の展示活動を検討してきた。荷田春満の偉業展示は、他の国学者や研究者などとは異なり、祭神として祀る神社が中心となって行われてきた事を指摘した。顕彰活動の基盤は神社にあるが、その契機は『荷田全集』刊行があったとし、『荷田全集』刊行に伴う調査をもとに展示活動が行われていたことを示した。それによって、荷田春満の顕彰は神社での祭祀と、出版、展覧会の3つの方法でなされたことを論じた。また、出版と展覧会が、祭神である荷田春満と東丸神社を周知させる働きも担っていたことを合わせて論じた。
「武田祐吉―その人物と学問―」, 『モノと心に学ぶ伝統の知恵と実践』, 125, 133, 2012年03月01日, 國學院大學研究開発推進機構伝統文化リサーチセンター, 国学者、武田祐吉の人物像と学問について書簡や草稿類から概観し、武田祐吉の学問について論じた。そこには『万葉集』の校訂作業に従事したことによって培われた文献学による研究成果が認められた。武田の研究は『万葉集』研究を中心としながらも、上代文献のほとんどを網羅した研究を行っている。時としては、他時代の文献(作品)の論考もある。そのため武田の学問を近代人文学の形成から考察することで、武田が後世に与えた影響を確認すると共に、武田の学問を研究史上に位置づけを行った。
「国民精神作興にみる武田祐吉の立場―昭和十二年、台湾における『万葉集』講義から―」, 『國學院大學 校史・学術資産研究』, 第5号, 69, 95, 2013年03月01日, 武田祐吉が昭和12年に台湾で行った『万葉集』の講義を中心としながら、戦時下における国民精神作興と武田の学問姿勢を論じた。台湾での講義が講演録として台湾で刊行されているが、その講演録は後に書名を変え、戦後にも刊行されていることから武田の『万葉集』講義には時局に左右されないものであることを指摘した。そして武田の講義は万葉精神を説いたものであり、万葉集の歌や歌人から、歌集成立時代の国民精神を考えたのにすぎず、時局がその万葉精神を戦時下の国民精神へと転換させ利用したとした。したがって、武田の講義内容は本質的な『万葉集』講義であり、武田の学問は戦前戦後と一貫した態度があると位置づけた。
「札幌神社月報「北海だより」の発刊とその背景」, 『國學院大學研究開発推進センター研究紀要』, 第8号, 163, 199, 2014年03月01日
「大山為起『味酒講記』の成立過程とその注釈法」, 『朱』, 57号, 2, 17, 2014年02月01日
「『釈日本紀』所引『万葉集』の性格―注釈史の視点から―」, 『國學院雑誌』, 第115巻第10号, 321, 337, 2014年10月15日, 國學院大學, 『釈日本紀』所引の『万葉集』の性格について論じたものである。引用される『万葉集』は歌謡注釈の頭注として顕れるものと、注釈本文に引用されているものに大別され、引用態度が重層的であることを指摘し、注釈本文にある『万葉集』は既に鎌倉以前の「日本書紀私記」にあったものが『釈日本紀』に採録されたことを述べた。したがって、『釈日本紀』が保持する『万葉集』本文は平安期の本文であることをあわせて指摘した。
「三矢重松の学位論文と折口信夫をめぐって」, 『國學院大學 校史・学術資産研究』, 第7号, 87, 111, 2015年03月06日, 國學院大學研究開発推進機構 校史・学術資産研究センター, 三矢重松の学位論文『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』について、関係資料や折口信夫の発言などから、その成立過程を論じた。三矢の学位論文は明治43年の2本の論文がもととなっており、それを折口が校正した可能性はあるものの代作は行っていないことを論じた。
「武田祐吉の学問態度と〈万葉精神〉」, 『昭和前期の神道と社会』, 285, 312, 2016年02月29日, 弘文堂, 武田祐吉が昭和12年に台湾で行った『万葉集』の講義もにした刊行物の変遷から、武田の学問態度について述べた。武田の講義は〈万葉精神〉を説いたものであり、『万葉集』の歌や歌人から、歌集成立時代の国民精神を考えたのにすぎず、戦前・戦中・戦後を通して一貫した『万葉集』講義が行われていることを論じた。
「横山当永による『日本書紀』の本文校訂態度―『日本書紀三元巻』叙・或問の翻刻から―」, 『文化史史料考證』, 2014年08月15日, アーツ・アンド・クラフツ, 近世の神道家である横山当永の『日本書紀』研究の態度について、その著書から検討したものである。当永は『日本書紀』のテキストとして『日本書紀三元巻』を刊行しているが、そこに掲載される叙・或問からは、当永独自の『日本書紀』観が記されている。刊行されたテキストと、写本として伝わる当永の注釈書から、当永は神代巻に加え神武紀を含めた三巻を重視していた。そして、当永の注釈は『日本書紀』の中にあるべき日本の道を求める活動であったとした。
「國學院と校地「渋谷」―大学の歴史と文教地区の形成―」, 『渋谷学叢書5「渋谷にぎわいを科学する」』, 89, 114, 2017年02月28日, 雄山閣, 國學院大學の歴史を中心に、渋谷の文教地区の形成について論じた。國學院大學が建つ「渋谷の岡」では、学校という教育機関と地域文化とが影響し合い独特の地域を形成してきたことが指摘できる。大正13年に國學院大學が飯田町から渋谷へ移転してきた頃から、教育機関が集中していく片鱗がみえ、次第に文教地区へと展開していく。周辺の他学校の歴史と地域との関わりや、学校間の関係を総合的に捉えながら渋谷文教地区の特色についても詳述した。
「天降る神の保証―迩芸速日命を中心に―」, 『日本文学論究』, 第63冊, 41, 48, 2004年03月01日, 國學院大學国文学会, 『古事記』中巻にあらわれる迩芸速日命の登場場面の解釈を行った。迩芸速日命は、上巻以外で高天原から降る神であるものの記述量は少なく、その登場の仕方も唐突である。また、『古事記』のみではなく『日本書紀』や『先代旧事本紀』にもその神名がみえる神として知られる。本稿ではまず『古事記』における「天降」と「降」の分析から天から降る神の性格を論じ、次に迩芸速日命が神武天皇に献上する「天津瑞」の機能を他文献の献上物と比較して、その働きを併せて論じた。そして、それぞれの文献にみえる迩芸速日命の説話の比較をとおして、『古事記』の特異性を考察した。また『古事記』における「仕奉」という表現の用例分析から、皇統にまつわる者にしか使われない表現であることを述べ、ニギハヤヒと氏族伝承の関連を見出した。そして迩芸速日命が神武天皇に服従する『古事記』説話は氏族の服属伝承として位置づけられると解釈した。
「天降る神の保証―迩芸速日命を中心に―」, 國學院大學國文學會春季大会, 2003年06月01日, 於 國學院大學, 『古事記』中巻にあらわれる迩芸速日命の登場場面の解釈を行い、迩芸速日命が神武天皇に献上する「天津瑞」を他文献である『日本書紀』『先代旧事本紀』と比較し、その働きを論じた。『古事記』における迩芸速日命の登場は、他文献に比べ、唐突であり記述量も少なく、扱われ方が異なっている。また、ニギハヤヒに連なる氏祖も文献によって異同が見られることから、天皇への服従と氏族伝承の関連を見出し、当該箇所は氏族の服属伝承と関係あることを発表した。
「荷田春満の『仮名日本紀』の特徴―東丸神社所蔵本の検討を通して」, 國學院大學國文學會秋季大会, 2004年11月01日, 於 國學院大學, 荷田春満の著した「仮名日本紀」のうち、東丸神社所蔵の春満自筆本が、自筆ではある者の春満説は反映されていないことを指摘し、春満の仮名日本紀成立までのプロセスを発表した。そして、春満自筆本が従来の「仮名日本紀」の諸本系統のうち、三手文庫本系統に属することを論じ、春満の学問交流を述べた。それによって、春満の『日本書紀』研究にあらわれる影響関係についても文献の伝播より考察した。その結果、『日本書紀』研究には『万葉集』で指摘される契沖の影響や『出雲風土記』で指摘される幕府との関係は認められないことをあわせて述べた。
「荷田春満と賀茂真淵の『日本書紀』研究―訓読研究を中心に―」, 古事記学会四月例会, 2006年04月01日, 於 学習院女子大学, 荷田春満の「仮名日本紀」と賀茂真淵の「日本紀訓考」から、それぞれの『日本書紀』の研究態度の差を明らかにした。比較は、『日本書紀』巻第三の神武紀を対象として、それぞれの訓読態度の違いから、登場するニギハヤヒの神格の解釈に違いがあったことを明らかにした。他にも、文末の敬意表現などにも差が見られ、春満と真淵では訓読姿勢に異なった態度があることを検証した。ただし、清濁を意識するなど共通した点があることも合わせて指摘した。
「荷田春満の『日本書紀』研究と卜部家との関わり」, 古事記学会大会, 2007年06月01日, 於 専修大学, 天理大学図書館所蔵の『卜部神代巻抄』上巻の伝授系統に荷田春満が名を連ねていることから、卜部家の学問と荷田春満の学問との関係性を述べた。そして春満の師とされる奥村仲之の説と、卜部説、春満説を比較して、春満の論の特徴を示した。比較対象としては、『先代旧事本紀』に対する態度、「一書」の取り扱い、「凡三神」の解釈、訓読法の四点から比較検証した。その結果として、春満には卜部家の説が、直接伝授されているほかに卜部家の文献を介しての影響も認められた。これは、伝授による中世的な学問から、文献を介しての近世的な学問転換とも見ることができると指摘した。
「「日本書紀抄」の成立―「~抄」の発生と注釈史を中心に―」, 全国大学国語国文学会夏季大会, 2008年06月01日, 於 和洋女子大学, 『日本書紀』注釈の一つである「日本書紀抄」について、「抄物」の発生と卜部家の学問が影響関係について発表した。まずは「抄物」としての機能を確認し、「日本書紀抄」には本来の「抄撮の学」としての働きを超えて、注釈を強調するといった趣があり、また『日本書紀』に「抄物」が出来た経緯を、『日本書紀』本文の漢文体による表記と関連づけて定義し、漢籍注釈の手法が『日本書紀』注釈に持ち込まれたとした。その背景には、卜部家(吉田家)の研究活動と五山禅僧の関わりがあることを述べ、大陸からもたらされた注釈方法が五山文学を介して「日本書紀抄」として『日本書紀』注釈に応用されたとした。
「『日本書紀』神代巻の受容と展開―國學院大學所蔵「日本書紀抄」について」, 神道宗教学会十一月研究例会, 2008年11月01日, 於 國學院大學, 卜部吉田家における「日本書紀抄」の発生と展開を、現存する諸本から考察した。とりわけ國學院大學蔵「日本書紀抄」から、卜部家の学問としての継承される形を考察し論じた。書写態度の変化から、それまで講義の聞書としての要素が強かった「日本書紀抄」という注釈書から、文献注釈へと転換したことを指摘し、吉田兼倶、清原宣賢、吉田兼右と連なる「日本書紀抄」の生成過程は、兼倶を出発点としながらも、それぞれ前者とは異なった新たな「日本書紀抄」を作成していた。このような伝来の一方で、宣賢の「日本書紀抄」は、清原家の中でも書写され後世へと伝わり、吉田家の流れのほかに、宣賢の『日本書紀』注釈に権威が付与されていった流れもあることを述べた。
「橘守部の『先代旧事本紀』研究―手沢本と『鼇頭旧事紀』の比較から―」, 神道宗教学会 第63回学術大会, 2009年12月01日, 於 國學院大學, 宮地直一旧蔵資料に見出された橘守部手沢本『先代旧事本紀』の書き入れの様相から、守部の『先代旧事本紀』研究の姿勢と成果を述べた。書き入れには、『鼇頭旧事紀』のみならず他文献と比較した様が確認され、様々な文献に拠る校合を守部が行っていることを確認した。そして、守部が新たに作り上げた本文によって、後に著される『旧事紀直日』へと繋がる守部の『先代旧事本紀』研究の過程を発表した。『旧事紀直日』は本文校訂の土台には、『鼇頭旧事紀』による『先代旧事本紀』の本文校訂があり、それらの説は守部手沢本を介して、『旧事紀直日』に踏襲されたことを詳細な用例分析から確認した。そして守部は、『先代旧事本紀』の本文を吟味し、新たな古典解釈の根拠としようとしたことを述べた。
「橘守部の『先代旧事本紀』研究―『旧事紀直日』の本文校訂を中心として―」, 國學院大學國文學會10月例会, 2010年10月01日, 於 國學院大學, 守部手沢本『先代旧事本紀』の書き入れから、守部著述の『旧事紀直日』への派生を、書き入れの内容と本文の解釈から述べた。手沢本に施された守部による諸本比較は、結果として卜部本系と伊勢本系とを校合していることを示した上で、守部が当時としては一番進んでいた『鼇頭旧事紀』の本文より、さらに進めた本文作成を行っていたとした。守部の本文校訂や『先代旧事本紀』注釈を作成しようとする根底には、正しい記紀理解を求める姿勢があったため、本文校訂を経て著された、守部の『旧事紀直日』は、それまで偽書として扱われることの多かった『先代旧事本紀』を『古事記』『日本書紀』と対等に扱っていた。そのため、『旧事紀直日』を境として、守部の『日本書紀』解釈にも変化が見られることを発表した。
「『釈日本紀』にみる『古事記』の価値」, 古事記学会大会, 2012年06月01日, 於 奈良県新公会堂, 鎌倉期に成立したとされる『釈日本紀』には、今日伝わっていない逸文含め、多くの文献が注釈の根拠として引用されている。『古事記』も例外ではなく、八十六箇所の引用がある。これまでも『釈日本紀』の『古事記』については、幾度か論じられてきたが、いずれも引用される『古事記』の本文系統について言及するのみであった。そこで『古事記』受容史の観点から、『釈日本紀』の注釈活動における『古事記』の扱い方(利用法)を整理し、改めてその価値を検討した。とりわけ『釈日本紀』の注釈のうち和歌部に着目し、歌謡研究における『古事記』歌謡の位置づけと、当時の『古事記』研究の在り方を示した。
「『釈日本紀』所引『丹後国風土記』逸文の性格」, 風土記研究会 第10回発表会, 2012年09月01日, 於 同志社女子大学, 『釈日本紀』における風土記逸文の引用態度の一端について発表した。『釈日本紀』には『丹後国風土記』逸文は二箇所あり、天橋立・筒川の嶼子(あるいは浦の嶼子)の説話として知られている。これらはいずれも、『日本書紀』における難語句の意味の根拠として用いられており、『日本書紀』解釈のために「風土記」が利用されている。この引用の態度から、『日本書紀』を「風土記」によって理解しようと、『釈日本紀』において試みられていることを指摘した。また、その解釈は『日本書紀』の言説を超えて、新たな神話(中世神話)の解釈を生成していることを述べた。
「『万葉集』所引の「記・紀」と『詩経』―巻二・九〇番歌の注釈学―」, 國學院大學國文學會秋季大会, 2014年11月16日, 於 國學院大學, 『万葉集』中に引用される「記・紀」は、巻一・二の初期万葉に集中している。『古事記』に比して多く引用される『日本書紀』は『万葉集』左注にのみあらわれ、歌が『日本書紀』の歴史性に仮託されているともいえる。つまり『万葉集』が『日本書紀』を取り込むことは単なる引用ではなく、歌を正史によって注釈し、歌に歴史性を持たせたということになる。その注釈によって、本来の歌の解釈を離れ、新たな解釈が『万葉集』内部に発生していることを、『詩経』のシステムをもととして『万葉集』みる「記・紀」の引用を『万葉集』解釈のためのシステムとして捉え、古代日本文化と中華文化の詩歌の解釈学について検討した。
「賀茂真淵『日本紀訓考』の価値―『古事記伝』の影響を考える―」, 上代文学会大会, 2016年05月15日, 於 福島大学, 賀茂真淵が著したとされる『日本紀訓考』について、『賀茂真淵全集』の底本となっている無窮会本が、真淵の門人である内山真龍によって改変が加えられていることを指摘し、そこには真龍を介した宣長の訓読の影響も認められることを示した。また、系統を異にするも真淵の『日本書紀』訓読を伝える文献として『神代紀注』と『神代巻修辞訓考』が存在することを指摘し、それら諸本にはそれぞれ真淵訓が継承されているが、諸本を補い合うことでより真淵訓が鮮明になることを述べた。