批判の規範的前提と歴史哲学, 藤野寛, 社会思想史研究, 2021年09月30日, 藤原書店
「倫理学と美学ー倫理と美の関係の帰趨を展望しつつ」, 藤野寛, 倫理学年報 第六十七集, 2018年03月31日, 日本倫理学会
日本哲学、こと始め, 國學院雑誌, 1316, 2016年12月15日, 國學院大学
「新たな経験としての反復、という逆説」, 『I.R.S.-ジャック・ラカン研究』, 12号, 2014年12月01日, 日本ラカン協会
「トーマス・ネーゲルの価値論 - 価値の客観性について」, 『言語社会』第8号, 『言語社会』第8号, 2014年03月01日, 一橋大学言語社会研究科
「キルケゴールの人と生-ヨアキム・ガルフ『SAK』を読む」, 『現代思想』, 2月号, 2014年02月01日, 青土社
「主観性/客観性をめぐる二つの思考 ― キルケゴール生誕二〇〇年に寄せて」, 『思想』, 5月号, 2013年05月01日, 岩波書店
「「チェルノヴィッツ」考」, 『思想』, 3月号, 2013年03月01日, 岩波書店
「倫理学の問題としての原発」, 『言語社会』, 第6号, 2012年03月01日, 一橋大学言語社会研究科
「アクセル・ホネットと社会的なもの」, 『言語社会』, 第4号, 2010年03月01日, 一橋大学言語社会研究科
「「言葉の力」をめぐる考察 — 第二次世界大戦直後の言語表現/言語批判」, 『思想』, 5月号, 2009年05月01日, 岩波書店, 終戦直後の日本には、新しい状況との思想的対決を試みる様々な雑誌が刊行されましたが、鶴見俊輔を中心とする『思想の科学』の実験は、哲学研究者にとってとりわけ興味深いものです。鶴見は、留学先のアメリカ合衆国で、クワインやラッセルを通して分析哲学を学び、カルナップらウィーン学団の機関誌『認識』を講読していました。他方で、フランクフルト学派の領袖ホルクハイマーは、ウィーン学団の中心メンバーの一人、ノイラートへの接近を試みていました。ウィーン学団を間に挟んでの『思想の科学』とフランクフルト学派の共通点と相違点に注目することで、終戦直後の日本の思想の風景に光をあてようと試みたのが、この研究プロジェクトで、科研費を得て、鶴見俊輔氏へのインタヴューが実現しました。
「フロイトと人文科学」, 『言語社会』, 第2号, 2008年03月01日, 一橋大学言語社会研究科
「主体の理念とその限界」, 『高崎経済大学論集』, 第48巻第3号, 2006年01月01日
「ナチズム体制下の哲学」, 『高崎経済大学論集』, 第45巻第 4号 , 2003年03月01日
「文化の双面性について ― アドルノの文化論と文化理論の現在」, 『高崎経済大学論集』, 第44巻第 1号 , 2001年06月01日
「アドルノの文化理論」, 『高崎経済大学論集』, 第43巻第 4号 , 2001年03月01日
「ドレイと雑種」, 『高崎経済大学論集』, 第42巻第 3号, 1999年12月01日
「ユダヤ人問題との関連においてみられたホルクハイマー/アドルノの「非同一的なもの」概念」, 『社会思想史研究』, 第22号, 1998年07月01日
「フランクフルト学派と唯物論の展望」, 『季報 唯物論研究』, 第65号, 1998年07月01日
「表現不可能なものの記憶-ホロコースト記念碑をめぐる論争」, 『高崎経済大学論集』, 第41巻第 1号 , 1998年09月01日
「多元文化論とアイデンティティの問題」, 『高崎経済大学論集』第40巻第 4号 , 第41巻第 1号 , 1998年03月01日
「多元文化論のための若干の基礎的思弁的考察-M・ウォルツァーに稽古をつけてもらって足腰を鍛えよう」, 『実践哲学研究20号』, 1997年11月01日
「ショーペンハウアーの美学とキルケゴールの実存倫理 ― 一つの「あれか/これか」, 『哲学』, 第48号 , 1997年04月01日, 日本哲学会
「多元文化主義・同化ユダヤ人問題・非同一的なもの」, 『現代思想』, 3月号, 1996年03月01日, 青土社
「マックス・ホルクハイマーの道徳思想」, 『倫理学年報』, 第45集 , 1996年01月01日, 日本倫理学会
「徹底した啓蒙家としてのニーチェ -マックス・ホルクハイマーのニーチェ解釈」, 『倫理学研究』, 第26集 , 1994年03月01日, 関西倫理学会
Kontemplativ-ästhetisch oder existentiell-ethisch ― Zur Kritik der auf der Stadienlehre basierenden Kierkegaardinterpretation, Kierkegaardiana, 17, 1994年01月01日, Kopenhagen
「哲学することへの反省」, 『実践哲学研究』, 増刊号, 1994年11月01日, 京都大学文学部倫理学研究室
「実存という問題」, 『実践哲学研究』, 第十号, 1987年01月01日, 京都大学文学部倫理学研究室
「キルケゴールの Dialektik について」, 『倫理学研究』, 第16集, 1986年01月01日, 関西倫理学会
「いかなる意味においてソクラテスをキルケゴールはたたえるのか」, 『実践哲学研究』, 第七号, 1984年01月01日, 京都大学文学部倫理学研究室
「マックス・ホルクハイマー/ 社会学と哲学、イデオロギーと行為、偏見について、ショーペンハウアーと社会、ショーペンハウアーの現代的意義、理性の概念に寄せて」, 『ゾチオロギカ-フランクフルト学派の社会学論集』, 2012年01月01日, 平凡社
「ジークムント・フロイト/ 不気味なもの、集団心理学と自我分析、女性同性愛の一事例の心的成因について」, 『フロイト全集 17』, 2006年01月01日, 岩波書店
「マルティン・ゼール/ 承認する認識 - 概念使用の規範的理論」, 『思想』, 5月号, 2006年05月01日, 岩波書店
「ヨアヒム・リッター/ 風景」, 『風景の哲学』, 2002年01月01日, ナカニシヤ出版
「ハンス・ヨナス/ 責任という原理」, 『責任という原理』, 2000年01月01日, 東信堂
「アクセル・ホネット/ 軽んじ(られ)ることの社会的ダイナミズム」, 『フランクフルト学派の今を読む』, 1999年05月01日, 青土社
「『隣人記』」(鶴見俊輔)他、十冊, 『書評大全』三省堂, 2015年01月01日, 青土社
「ドイツ文化史への招待」(三谷研爾編), 『文化経済学』, 24号, 2007年03月01日
「寛容について」(M・ウォルツァー), 『高崎経済大学論集』, 第47巻第3号, 2004年12月01日
「軽薄な連帯でも濃厚な憎悪でもなく‐M・ウォルツァー『道徳の厚みと広がり』によせて」, 『風のたより』, 2004年01月01日, 風行社
『アドルノ美学解読ー崇高概念から現代音楽・アートまで』, 藤野寛・西村誠, 花伝社, 2019年12月20日
『友情の哲学 - 緩いつながりの思想』, 作品社, 2018年05月10日, 人びとの生き方が多様化し、SNSが日常化した社会の中で、私たちはどう歩んでいくべきか。「友情」という承認の形に注目し、その定義から未来像まで哲学する。
「個人的なことは政治的なこと」の意味するところ - その誤解に次ぐ誤解について(『個人的なことと政治的なこと - ジェンダーとアイデンティティの力学』), 彩流社, 2017年03月31日
『「承認」の哲学 - 他者に認められるとはどういうことか』, 青土社, 2016年07月07日
『承認論とジェンダー論が交叉するところ』(『ジェンダ-における「承認」と「再分配」格差、文化、イスラーム』), 彩流社, 2015年03月01日, 昨今、現代の社会問題を分析する上で、「承認」という言葉が重要な役割を演じています。個人や集団のアイデンティティ形成にとって、他者から認められるという経験の重要性が認識されつつある、ということです。愛されることこそは、認められることの範例的経験に他なりません。「愛することは女性の十八番(オハコ)」という発言を手がかりに、承認論とジェンダー論の接点を探ろうとしたのが、この論考です。その際、承認の経験が必ずしも個人の自律性の強化につながらず、逆に、支配的イデオロギーへの迎合に帰結しうるという危険性についても、指摘しました。
『キルケゴール‐美と倫理のはざまに立つ哲学』, 岩波書店, 2014年12月01日, 博士論文の中で提示したキルケゴール解釈を根底に据えつつ、その後の20年間に蓄積された新たな研究成果を盛り込み、自らのキルケゴール研究の集大成を試みた著作です。とりわけ、2000年に刊行され、既に決定版の評価を確立しているヨアキム・ガルフによるキルケゴール伝に依拠して、キルケゴールの「人と生」を要説した第二章と、『反復』『不安の概念』の読解を通して、「新たな経験としての反復、という逆説」として、キルケゴール哲学の根本経験を浮き彫りにすることを試みた第五章が、「新たな研究成果」に該当します。
『フロイトのセクシュアリティ理論とジェンダー問題』(『ジェンダ-と「自由」』), 彩流社, 2013年03月01日
「キルケゴール」 「死に至る病」「アドルノ」「ホルクハイマー」「フランクフルト学派」「批判理論」「文化産業」「道具的理性」, 弘文堂, 2012年12月01日
『高校生と大学一年生のための倫理学講義』, ナカニシヤ出版, 2011年04月01日, 様々な問いと取り組む学問としての哲学の中でも、私は、とりわけ倫理学を主要研究対象とし、教育面でも倫理学に重点を置く授業を行ってきました。本書は、ここ数年「倫理学概論」講義を担当している非常勤先の大学での講義ノートをもとに、一橋大学大学院での「倫理思想論」講義における成果をさらにそこに盛りこむことで生まれた倫理学入門書です。まず規範倫理学、メタ倫理学的考察を通して倫理学の基礎的な考え方を明らかにした上で、後半部では、近年の応用倫理学や社会倫理学における議論を受け止めつつ私なりの思考を展開するよう努めました。
『自由と暴力、あるいは〈関係の暴力性〉をめぐって』(『自由への問い8 生』), 岩波書店, 2010年07月01日
『なぜ小倉千加子は、フェミニズム は失敗した、と言うのか-あるいは、フェミニズムのジェンダー論的転回について』(『ジェンダーから世界を読む II』), 明石書店, 2008年12月01日
「キルケゴール」「アイデンティティ」「アドルノ」「ファシズム」「フランクフルト学派」「ホルクハイマー」「マルクーゼ」, 弘文堂, 2006年12月01日
『フロイトと『死に至る病』を読む』(『可能性としての実存思想』), 理想社, 2006年01月01日
『大衆の欲望・表現・メディア―『ビッグ・ブラザー』考』(『表現の <リミット>』), (ナカニシヤ書店), 2005年06月01日
『人生の無意味さ、良し悪し、尊厳について』(『ニヒリズムとの対話』), 晃洋書房, 2005年04月01日
『アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか』, 平凡社, 2003年03月01日
『キルケゴールとアドルノ』(『アドルノ 批判のプリズム』), 平凡社, 2003年03月01日
「多文化主義」, 論創社, 2003年01月01日
『家族と所有』(『所有のエチカ』), ナカニシヤ出版, 2000年10月01日
『キルケゴール』(『哲学の歴史 9 反哲学と世紀末』), 中央公論新社, 2000年80月
『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏』, 勁草書房, 2000年03月01日, アドルノとホルクハイマーは、二十世紀ドイツを代表する哲学者ですが、とりわけアドルノは、美的で難解な文体で知られ、昨今の研究の蓄積にもかかわらず依然として接近の難しい存在であり続けています。本書では、日本語で書かれ、信頼して読むことのできる基礎的二次文献を提示することを試みました。「全体」「理性」「文化」「幸福」といった哲学の中心概念に着目し、カント、ヘーゲル、フロイトら先行思想家との対話の中で、抽象的と感じられもする哲学の議論においてそもそも何が問題にされているのかを明らかにすると共に、同化ユダヤ人問題や多文化主義、モダニズム論、家族論といった、現在なおアクチュアルな具体的問題に取り組みました。
『キルケゴール『死にいたる病』』(『言葉がひらく哲学の扉』), 青木書店, 1998年07月01日
『逆説弁証法』(『キェルケゴールを学ぶ人のために』), 世界思想社, 1996年01月01日
Kierkegaards 'Entweder/Oder': ein 'Entweder ästhetisch/Oder existentiell' ― Versuch einer Neubewertung des Denkens Kierkegaards hinsichtlich seiner Grundkategorien des Ästhetischen, des Ethischen und des Religiösen(学位論文), Würzburg, 1994年12月01日, 1993年にフランクフルト大学に提出し受理された学位論文です。キルケゴール哲学を「実存段階説」と捉える通説を斥け、観念論哲学とロマン主義文学の優勢な十九世紀前半の時代思潮を批判することにこそ、キルケゴールの著作活動の意味は存在した、とのテーゼが提出されます。キルケゴールは、「美的宗教性」とでも呼ぶべきロマン主義文学、観念論哲学を、キリスト教の本質を脅かす脅威とみなし、これに実存倫理を対置することによって、キリスト教の本質を救出しようとしたのであり、そのように解釈してこそ、彼の哲学の中心概念である「実存」という言葉の意味も正しく理解可能になる、と主張しました。
「1915年のキルケゴール」, 現代倫理学研究会(専修大学), 2015年03月01日
Wiederholung als eine neue Erfahrung - ein Paradox, Kierkegaard-Symposion, Domäne Marienburg , 2014年08月01日, Hildesheim
「新たなる経験としての反復という逆説」, ラカン協会, 2013年12月01日, 専修大学
「藤野寛/ キルケゴールの人と生 ― ヨアキム・ガルフ『SAK』を読む」, 現代思想の源泉としてのキルケゴール ──生誕200周年記念ワークショップ, 2013年11月01日, 高崎経済大学
「「共感・共苦」-趣旨・方法の説明」, 日本倫理学会 共通課題「共感・共苦」, 2009年10月01日
「人生の無意味さ、良し悪し、尊厳について」, 日本倫理学会 共通課題「ニヒリズムと現代」, 2003年10月01日, 2003年の日本倫理学会の共通課題「ニヒリズムと現代」への提題を大幅に加筆修正した論考で、「人生に意味などない」という命題において、本当のところで「何がないと主張されているのか」を、トーマス・ネーゲルの緒論から強い知的刺激を受けて明らかにしようと試みたものです。何かの「意味」は、「全体」の中にそれを位置づけた上でその位置価として理解されている、と解釈した上で、確かにその意味では「人生に意味はない」と言えるとしても、そのことはしかし、「(道徳的意味ではない)良い人生」や「尊厳ある人生」の可能性を排除するものではない、と論じました。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか?」, 日本独文学会, 2001年10月01日, 信州大学, アドルノは、第二次世界大戦以降の(西)ドイツの文化シーンにおいて常に積極的に発言し、強い影響力を行使した哲学者でした。この事実を背景に、アドルノの文化理論の核心を取り出すとともに、ドイツにおける文化状況の現在を素描することを試みた著作です。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」という有名な発言において、アドルノの真意はどこにあったのかを探り、そこに、文化産業論や音楽論を接続させて、アドルノの文化理論の全体像を描き出すとともに、1996年から2002年の7年間、共同通信社配信の新聞に連載していたコラム「海外手帳ドイツ」を再録しました。加えて、「ドレイと雑種」という観点から、竹内好、加藤周一の日本文化論との対話を試みました。
「国家を必要としない〈われわれ〉とは何者なのか?」, 日本倫理学会 共通課題「二〇世紀-倫理学への問い」, 1999年10月01日, 大阪大学
「「帰属」について」, 「関西倫理学会」シンポジウム「民族・文化・倫理」, 1997年11月01日
「同化ユダヤ人問題という観点からみられたアドルノの「非同一的なもの」概念」, 社会思想史学会, 1996年11月01日
「細見和之『アドルノ』によせて」, 現象学社会科学会, 1996年01月01日, 龍谷大学
「ショーペンハウアーの美学とキルケゴールの実存倫理」, 日本哲学会, 1996年04月01日
「フランクフルト学派の道徳思想とフロイト」, 日本倫理学会, 1995年01月01日
「なぜイロニーがロマン的でありうるのか」, 日本独文学会, 1995年01月01日, 北海道大学
「徹底した啓蒙家としてのニーチェ - マックス・ホルクハイマーのニーチェ解釈」, 関西倫理学会, 1994年03月01日
「キルケゴールとアドルノをつなぐもの」, 京都倫理学会, 1986年01月01日, 京都大学
「S.Kierkegaard の Dialektik について」, 関西倫理学会, 1984年01月01日, 神戸女学院大学
16K02561, 「文学の悪」再考――価値崩壊時代の人文リテラシーとテクスト・モラル, 人文学という枠組みがすでに枠組みとしては機能しなくなった現在、「人文知」が何をいかに発信しうるかというテーマ設定自体が無理な「きしみ」を内包していると言わざるをえないことを改めて実感した三年間であった。人文知と呼べるようなものが残存しているとすればそれはすでに他の諸々の枠組みの中に埋没する形で生きているし、むしろそのような埋没した形でこそその有効性にも批判力にも期待しうる。その有効性を発掘するために、学会を立ち上げ、また地域連携文教マッピングサイトを企画して実現の端緒についた。;人文知なるものの、「学術」のネットワーク内部における位置づけを再考し、翻ってその位置づけによって関連諸分野の配置を換骨奪胎してよりアクティヴなものにすることを目的として、学術研究会「一氾文学会」を創立した。他方、同じ人文知なるものの、「学術」の外部における役割と位置づけを再考するために、東京都国立市の「学び」に着目して「文教マッピング」ウェブサイトを構想し、試行サイトを構築した。後者はやがて生涯学習の汎用的構想にささやかな寄与をすることが期待される。
15K01988, アドルノ倫理学の研究 - 美学との関係の中で, 第一に、西村誠氏と申請者を中心に14人のメンバーで「美学研究会」を開催し、アドルノ『否定弁証法』『美の理論』『美学講義(1958/59)』を原典講読し議論した。この研究会を母体に「アドルノ美学」をテーマとする論文集の上梓をめざし書籍原稿を完成した。第二に、申請者が、ベルリンのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフに所蔵され、訪問者に閲覧と筆写が許されるアドルノの遺稿の内1961/62年の『美学講義』を閲読の上で筆写する作業を継続した。第三に、エーバーハルト・オルトラント氏(ビーレフェルト大学)、ゲオルク・ベルトラム教授(ベルリン自由大学)を招聘し、アドルノ美学に関する講演会とコロキウムを開催した。;アドルノ美学は、その重要性が広く認められているに比して、十分に受容されているとは言い難い。その主たる理由は、美学上の主著『美的理論』が極めて難解に書かれていることにある。その結果、邦訳は誤訳の羅列であり、とりわけ日本においてアドルノ美学の受容が進まない状況を生んでいる。;本研究は、第一に、この難解な著作をドイツ語原文で読む研究会を継続することを通して、第二に、アドルノの未刊行の『美学講義1961/62』を筆写し研究会において共有することを通して、第三に、ドイツからアドルノ美学研究者を招いて学問的交流を進めることを通して、上記のような現状を打破することをめざし、期待以上の成果をあげることができた。
25370344, ヨーロッパの文学・思想における未来選択の位相, 過去の文化を継承し発展させていく中で必ず課題となる未来選択について、ヨーロッパを主対象としてその要因とプロセスを分析し、その特性から根底にある歴史観・世界観を考察する目的に即して、過去の文学・言語学・哲学・芸術等の諸領域にわたって未来展望の様相を明確にし、現代における未来選択に際しての特徴の分析にまで拡大することができた。特に重要な倫理の問題については2014年刊行の言語社会研究科紀要で特集を組み多角的な論考や対談を公表する機会を得た。
24617004, 「多文化都市チェルノヴィッツの社会と文化」研究, かつてチェルノヴィッツという街があった。1918年に第一次世界大戦が終結し、オーストリア帝国が崩壊するまで、この帝国の一地方都市だった。オーストリア領だったので、ドイツ語文化が支配していたが、ドイツ人より多くのウクライナ人、ルーマニア人が住んでいた。それ以上に、多くのユダヤ人が暮らしていた。歴史上、ドイツ-ユダヤ文化が真に実現していた街があったとすれば、それはチェルノヴィッツだ、とすら言われる。しかし、1918年以降はこの街はルーマニア、ソ連、ウクライナと属する国を替え、今日、多文化都市の面影を見出すことは難しい。本研究がこの街の過去とその文化へのオマージュとならざるをえない所以である。
21520316, ヨーロッパの文学・思想継承における歪曲の系譜, 西洋の文化・社会における古代ギリシア・ローマ以来の古典伝統継承における曲解・歪曲的受容の過程と原因を分析考察し、西洋文化の自己理解の諸相を浮き彫りにする目的に即して、詩学・美学・心理学・言語学の領域にまたがる継承過程が明確になり、近代以降の受容における曲解・歪曲の特徴考察にまで拡大することができた。さらには、懸案の日欧文学・言語比較研究において具体的事象の検討をおこない一定の成果をみた。
17520070, 二つの戦後の出発-「フランクフルト学派」と『思想の科学』, 本研究は、初期『思想の科学』の活動の意義を明らかにすることを目的の一つとし、そのため、この雑誌の創刊同人にインタビューし、解釈上の疑問を直接ぶつけるという具体的課題を抱えて出発した。しかし、過去二年間に都留重人氏と鶴見和子氏が亡くなり、残るは、鶴見俊輔氏と武田清子氏になってしまった。私は、お二人にインタビューを申し込み、鶴見氏からは快諾をいただいた(残念ながら、武田氏には受けていただけなかった)。鶴見氏へのインタビューは、岩波書店の『思想』誌の賛同を得て共同企画として実現した。;鶴見俊輔とアメリカ哲学を結ぶものといえば、プラグマティズムを連想するのが定番となっているが、戦後の出発の時点で氏の仕事を規定していたのは、むしろ論理実証主義的問題意識だったのではないか。具体的に、日本語の改良、ベイシック・イングリッシュをモデルとする基礎日本語というアイデアや、表意文字としての漢字を減らし日本語表記をローマ字化しようとする意図が見て取れるが、その志向は時とともに放棄されていったように見える。何故か、どのような経緯だったのか。鶴見氏のアメリカ合衆国に対する姿勢は、共感に支えられるものだったと考えられるが、その姿勢は、日本の戦後啓蒙の陣営にあって特異なもので、そのことが、鶴見氏の活動に困難をもたらすことがあったのではないか。その基本的「親米」の姿勢は、どのように一貫しまた変化したのか。;インタビューは、以上のような問いをめぐって繰り広げられ、熱い回答を得ることができた。『思想』誌は2008年8月号を「鶴見俊輔」特集にあてることになり、私も「「言葉の力」をめぐる考察」を寄せることになっているが、この論考は、今回の研究の現時点での総括である。「現時点での」という但し書きが付くのは、「第二次世界大戦直後の言語表現/言語批判」という論考の副題が、同時に次の研究課題を示すものともなっているからである。
17510203, EUにおける言語問題と言語文化, EU機構は、全参加国言語平等使用を原則としているが、翻訳書類作成・会議通訳等における実施は容易でない。ネット検索と実地見学による言語使用状況調査、および主として独語・仏語圏における現状実態調査をふまえ、人事・経費に関わる諸問題もさることながら、各国・各地域の言語意識が問題の主要因を形成すると確認した。本研究では、言語意識のなかでも、大言語である英語に対抗する中小言語の文化アイデンティティを分析考察した。その際、多言語主義を支える公的思想、言語使用にあらわれる言語意識と文化アイデンティティの関係、EU諸国の自国語・外国語教育、共有伝統文化の受容形態を主たる対象とした。;その結果、研究分担者の研究領域における具体的事項の綿密な検討により、独語・仏語等の各言語に基づく地域文化の異同、相互関係、相互干渉が、言語学的論考はもとより、思想的・歴史的・社会的・文化的考察を経て明確にされた。特に18世紀後半の独語・仏語と「ナショナリズム」との関係、ギリシア・ローマ文化の共有的継承と近代文学への反映、汎ヨーロッパ的に受容される芸術文化、20世紀前半から大戦後にかけてのドイツ思想と米文化の影響、言語の相違を越えた情報発信としての百科全書に関する成果があげられる。さらに、本年度は一橋大学所属のドイツ人日本学研究者の参加を得て、日本語文献の独語圏への紹介状況および日本における西洋言語意識と教育に関する西洋的視点からの報告考察が加えられたことは、本研究を日欧比較さらに日欧関係検討へと発展させる展望を提示して重要である。;以上の成果をまとめ、報告書「EUにおける言語問題と言語文化」を作成したが、本研究に基づく、あるいは本研究から派生した報告と研究論文の発表準備がすすんでおり次年度以降も学会・紀要に発表される。
14510048, アドルノの文化理論と文化論の現在, 本研究がめざしたのは、第一に、文化をめぐるアドルノの思索を体系的に理解すること、第二に、そこで再解釈されたアドルノの文化理論を、文化をめぐる現在の状況に向けて有効に発言してゆく上での武器とすることであった。;第一の課題とは、研究初年度に集中的に、取り組むことになった。年度末に上梓した『アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか』は、文化をテーマとする既発表の論考に、新たに書き下ろされた「文化と野蛮の弁証法的関係」と「音楽の進歩と啓蒙の弁証法」を主題とする二章を加えて、この面での成果を集成したものである。;アドルノ研究に関しては、2003年が彼の生誕百周年であったこともあり、フランクフルト大で閉かれた国際シンポジウムに出席し、「アドルノの道徳理論」に関する新たな問題意識を獲得する上で貴重な示唆を得た。さらに、この百周年を概縁として数多く刊行された新たな文献を通して、戦後のフランクフルト学派の活動についての多くの情報が得られ、それを基にして「引き裂かれた生」という論考をまとめたが、ここからさらに、「二つの戦後-フランクフルト学派と『思想の科学』」という新たな研究テーマを獲得することになった。;第二の課題については、初年度に執筆した「虚構としての文化-文化理論をめぐる最近の議論について」というサーベイ論文を土台として、現在、具体的な個別研究を進めている段階である。一つには「公共性と文化」についての考察であり、そこでは「非同一性」をめぐるアドルノの思考が土台をなしている。いま一つは「表現の自由と大衆の欲望」に関する研究であり、アドルノのテレビ論、大衆文化論との批判的対決が研究の出発点に置かれている。この方向での研究は、今後さらに本格的に展開されるはずである。
19K00041, アドルノの歴史哲学 ― 美学との関係において, アドルノの哲学を原典の緻密な読解を通して正確に理解することが課題の中心となる。とりわけ美学と歴史哲学の関係に焦点をしぼり、アドルノの哲学の全体像を浮き彫りにすることがめざされる。;具体的には、第一に、過去30年間、研究代表者が月に一度のペースで行ってきたアドルノの哲学・美学の著作を原典で読む勉強会を参加者を増やしつつ継続する。;第二に、研究代表者が夏期休暇を利用してベルリンのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフに赴き、『美学講義(1961/62)』と『歴史哲学入門講義(1957)』を閲読し筆写する。;第三に、現代ドイツのアドルノ研究者を毎年一人日本に招き、講演会・研究会を開催して学問的交流をはかる。;本研究は、(1)申請者が30年以上にわたって続けてきている、アドルノの哲学上の主要著作である『否定弁証法』と『美の理論』を原典で読む研究会(「アドルノ美学研究会」)を、およそ10人の参加を得て継続すること、(2)ベルリンのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフに申請者が赴き、アドルノ『歴史哲学講義(1957)』を閲読・筆写すること、(3)現代ドイツの若手アドルノ研究者を日本に招聘し、講演会と共同研究会を開催すること、の三点を内容とするプロジェクトである。;2022年度は、このうち(1)と(2)については計画通り実施することができた。;即ち、(1)の「アドルノ美学研究会」はコロナ禍による中断を経つつも、2020年秋にオンラインにて再開され、その後は月に一度のペースで開催され、本年度は10回の開催を見た。研究会と並行して、この研究会の中心メンバーによってアドルノ『美学講義1958/59』の翻訳が進められてきたが、その翻訳原稿は出そろい、目下改稿作業中であり、監訳者の西村誠氏と本研究申請者による解題・解説の執筆もほぼ終了し、2023年5月中には原稿を揃えて出版社に提出、順調に進めば2023年中には刊行できる予定である。;(2)については、2022年8月~9月及び2023年3月に申請者がベンヤミン・アルヒーフに赴き、『歴史哲学講義(1957)』の閲読・筆写に着手、継続した結果、全20回に及ぶ本講義のうち、ちょうど半分の第10講義までを筆写することができた。;それに対して、(3)については、もともとユリアーネ・レーベンティッシュ教授(ダルムシュタット工科大学)、ゲオルク・ベルトラム教授(ベルリン自由大学)をそれぞれ10月と3月に東京にお招きし、講演会及び共同研究会を開催する予定であったが、コロナ禍の影響を受け、1年の延期を余儀なくされることになった。;コロナ禍の影響を受け、『アドルノ美学研究会』は半年余り、中断を余儀なくされた。(その後、オンラインでの開催に移行した。);申請者のベルリン出張も予定通り行うことはできなかった。;ドイツのアドルノ研究者を日本に招聘することも不可能となった。;コロナ禍のせいで予定通り行えなかった、ドイツのアドルノ研究者の招聘、共同研究会+講演会の開催を実現したい。;『アドルノ美学研究会』及び、ベルリンのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフ出張は、これまで通り継続する。
JP19K00041, アドルノの歴史哲学 ― 美学との関係において, アドルノの哲学を原典の緻密な読解を通して正確に理解することが課題の中心となる。とりわけ美学と歴史哲学の関係に焦点をしぼり、アドルノの哲学の全体像を浮き彫りにすることがめざされる。;具体的には、第一に、過去30年間、研究代表者が月に一度のペースで行ってきたアドルノの哲学・美学の著作を原典で読む勉強会を参加者を増やしつつ継続する。;第二に、研究代表者が夏期休暇を利用してベルリンのヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフに赴き、『美学講義(1961/62)』と『歴史哲学入門講義(1957)』を閲読し筆写する。;第三に、現代ドイツのアドルノ研究者を毎年一人日本に招き、講演会・研究会を開催して学問的交流をはかる。;第一に5年間、ほぼ毎月、合計60回の「美学理論研究会」を5~10人の参加のもとズーム開催した。第二に、申請者が合計5度、ベルリンのベンヤミン・アルヒーフに赴き、アドルノの『美学講義1961/62」『歴史哲学講義1957』を閲読、筆写した。「美学理論研究会」では2006年来、アドルノの哲学的主著『否定弁証法』と『美的理論』を原典購読し議論してきた。並行して『美学講義1958/59』を読み進めてきたが、アドルノ美学理解にとって重要なこの講義を翻訳・刊行しようという企画が生まれ、研究会メンバーの分担協力のもと翻訳作業に取り組んできた。翻訳原稿が出そろい原稿の校正段階に入っている。;
;アドルノの哲学的思考の中心には美学・芸術論がある。けれどもその唯一の体系的著作である『美的理論』は難解を極め、しかも邦訳の質が極めて低いため、日本のアドルノ研究は未だにアドルノ美学の全貌を捉えられずにいる。;申請者が主催する共同研究グル-プ「美学理論研究会」はアドルノのこの美学上の主著を原典で読み議論するというところから出発し、先ず2019年に研究成果を共著『アドルノ美学解読』において公にした。次いで、極めて懇切丁寧に語られたアドルノ『美学講義1959/60』の共同翻訳に着手し、近く刊行される。日本のアドルノ美学の研究は、この両書によって礎石を置かれたと考える。