宗像・沖ノ島における古代祭祀の意味と中世への変容―人間の認知と環境変化の視点から―, 笹生 衛, 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 特別研究事業 成果報告書, 139, 156, 2023年03月31日, 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 特別研究事業 成果報告書, 本論文では、宗像における古代祭祀と神観を再検討し中世への変容について考察した。
認知宗教学が示す、特定の働きにその行為者(神)を直観する人間の認知機能にもとづき考えると、沖津宮・中津宮に坐す神々は、航海上の海上目標の働き、辺津宮に坐す神は港湾に適した潟湖の働きに神観の基礎があると推定した。
その古代祭祀は、7世紀後半を画期に、須恵器を神饌の食器とし滑石製形代を幣として多用する形に変化した。背景には、神郡の宗像郡の成立と神戸の編成・成立があったと考えられる。
宗像三女神の神観と祭祀は、9世紀後半から10世紀の国内外の緊張関係と環境変化を受けて変質し、仏教的な性格が顕著となった。また、10世紀以降、釣川河口に新たな浜堤が形成され、釣川河口の港湾機能は減退、辺津宮の西、津屋崎干潟の港湾機能は明確となり、日宋貿易の拠点となった。この過程で、宗像三女神に仏教の勧請の考え方を適応させ、辺津宮に沖津宮・中津宮の神々を併せ祀る境内景観が成立した。一方、沖津宮(沖ノ島)は、日宋貿易の主要な航海ルートからは外れ、古代以来の神の存在を象徴する聖域として、その後に信仰を伝えて行くこととなった。
「災い」神を変える―9・10世紀における災害対応と神の勧請―, 笹生 衛, 神道宗教, 第264・265号, 1, 24, 2022年01月25日, 神道宗教学会, 平安時代の災害は、文献史料に加え、近年の理化学的な研究と考古学の調査・研究の成果を総合してみることにより、これまで考えられていた以上に、古代社会へと深刻な影響を与えていたことが明らかとなってきた。特に災害に伴い、河川や海浜での地形・環境の変化は、古代社会を支えてきた農業生産と交通の機能を低下・混乱させた。古代的な生産と交通の再編成を促すものであった。
地形・環境の働きと直結していた古代の神観も変化した。特に、災害を防ぎ国家を護るため、9世紀に導入された『仁王経』と、「仁王会」の神観が大きな影響を与えたと考えられる。『仁王経』にある「鬼神の乱れ」は当時の災害と重なり、神々へと『仁王経』を聞かせることで、神々は国土を守護する存在となるとの仏教的な神観が定着していく。そして11世紀初頭には、神名を唱えることで神霊を呼ぶことができる仏教的な「勧請」の考え方が、日本の神祇にも適応されるようになる。これは、「神を降ろす」という神観や、祭りに当たり神霊を招く「依代」の考え方と整合するものである。この神観は、古代社会が災害の後に再生し、中世へと移行するうえで精神的に大きな役割を果たしたのである。
『記紀』と大嘗祭—大嘗宮遺構から考える『記紀』と大嘗祭の関係—, 笹生 衛, 國學院雑誌, 第121巻, 第11号, 24, 42, 2020年11月15日, 國學院大學
塩津港の神と神社, 笹生 衛, よみがえる港・塩津 水野章二 編著, 57, 103, 2020年03月16日, サンライズ出版
大嘗祭の意味と起源-大嘗宮から考える祭祀の意味と神宮との関係-, 笹生 衛, 瑞垣, 245, 65, 82, 2020年02月17日, 神宮司庁
神道(祭祀)考古学, 笹生 衛, 季刊考古学, 2020年02月01日, 雄山閣
「中臣寿詞」の「天つ水」再考-「水の祭儀」論の再検討-, 笹生 衛, 國學院雑誌, 120, 11, 20, 42, 2019年11月15日, 國學院大學
古代大嘗宮の構造の構造と起源-祭式と考古学資料から考える祭祀の性格-, 笹生 衛, 神道宗教, 254・255, 87, 120, 2019年07月25日, 神道宗教学会
沖ノ島祭祀の実像, 笹生 衛, 季刊考古学・別冊, 27, 19, 24, 2018年11月25日, 雄山閣
神祇祭祀の起源と史的背景-祭祀考古学の視点から-, 笹生 衛, 古代文学と隣接諸学7『古代の信仰・祭祀』, 19, 42, 2018年10月25日, 竹林舎
神道考古学から祭祀考古学へ-最近の祭祀遺跡研究から見た古代祭祀の実態と神観-, 笹生 衛, 國學院大學研究開発推進機構紀要, 10, 75, 93, 2018年03月31日, 國學院大學研究開発推進機構
律令期の祭祀・儀礼・と官衙・寺院・集落-信仰関連遺物からみた祓の再検討と信仰の地域ネットワーク-, 笹生衛, 古代東アジアの仏教交流, 314, 349, 2018年, 勉成出版
宗像沖ノ島の祭祀遺跡と古代祭祀, 笹生 衛, 考古学ジャーナル, 707, 5, 9, 2018年, ニューサイエンス社, 宗像沖ノ島祭祀遺跡における4段階の変遷を、出土遺物の組成・出土状況と『皇太神宮儀式帳』に記された祭式などと比較することで再検討した。
お神輿こと始め-「神」と「祭」の考え方から読み取る物語-, 笹生 衛, 神輿文化を考える, 2017年02月28日, 國學院大學 研究開発推進機構 学術資料センター(神道資料館部門), 『続日本紀』『延喜式』祝詞、『本朝世紀』などの神が移動する記事を手かがりに、古代の神は移動する場合、やはり道を移動していたことを確認した。その上で、やはり神輿は、神が移動する上で中心的な機能を果たしたことを改めて確認し、古代の神輿の実態を『年中行事絵巻』の図像資料から明らかにした。
日本列島における「祭祀」の起源, 笹生 衛, 前方後円墳の出現と日本国家の起源, 2016年11月10日, KADOKAWA, まず、認知宗教学にもとづき神観や祭祀の構造について確認した上で、弥生時代から奈良時代にいたる神祇祭祀の形成過程を概観した。構成は、以下の通りである。「祭祀」とは何か。祭祀の萌芽-縄文から弥生へ。死者への直観と墓。死体・遺体と社会。古墳の成立と前方後円墳の葬法。東国の古墳、洪水と開発。神への祭式と祭祀の確立-4世紀代の変化。祭式の共有、神観と環境-5世紀代の祭祀。「天下」、神の観念と祭祀。
自然災害と古代の信仰・祭祀, 笹生 衛, 東日本大震災 神社・祭り 災害の記録と復興, 2016年07月08日, 神社新報社, 自然災害と古代祭祀との密接な関係を、文献史料と考古資料で確認し、その神観が、古代末期の災害と環境変化の中で、中世的な神観・信仰へと変化することを指摘した。
郡衙周辺の景観とその信仰的背景-放生、大祓と郡衙、寺院、祭祀・儀礼の景観を手かがりに-, 笹生 衛, 日本古代考古学論集, 2016年03月31日, 同成社, 天武天皇5年8月の大解除(大祓)、放生、大赦と『薬師経』との密接な関連性を確認した上で、その直後、7世紀末期から8世紀初頭、全国の郡衙周辺で展開した寺院と祭祀の場の成立との関連性を指摘した。そこからは、祭祀と仏教儀礼を両輪として鎮護国家を図る初期律令国家の意図が窺えるとともに、そこが地域の人々の除災・除病の信仰の場ともなったことを指摘した。
祭祀遺跡からみた古代の出雲-杵築大社成立の背景-, 笹生 衛, 島根県古代文化センター研究論集第16集『古代祭祀と地域社会』, 2016年03月01日, 島根県古代文化センター, 出雲大社境内の祭祀遺構と出雲地域の水辺の祭祀を比較し、その祭祀の性格や神観について、『皇大太神宮儀式帳』の度会郡の神社の記述との比較・検討から推定した。その結果、『出雲国風土記』で杵築大社に祀られるとされる「天の下造らしし大神」の神格は、水源の山と水が流れる環境で、大和王権も関係しながら4世紀後半には形作られたと推定した。また、出雲は玉生産の重要な地域として、さらに朝鮮半島に近いという地理的な特徴から、神郡が設置されたことにも言及した。
神殿の成立と神観・祭祀, 笹生 衛, 季刊悠久, 141, 37, 52, 2015年08月30日, 鶴岡八幡宮悠久事務局, 従来の神殿成立論を整理した上で、9世紀初頭の古代神社の実態を細かく記載した『皇太神宮儀式帳』の内容を分析し、神社・祭場の構造は神観・祭式により規定され、一律には考えられないことを指摘した。併せて、神籬は榊の木を指すものではなく、建物を伴った祭祀用の区画遮蔽施設である点を指摘、「依り代」を前提とした古代祭祀の解釈も再検討が必要である点も指摘した。
祭祀の意味と管掌者―5世紀の祭祀遺跡と『古語拾遺』「秦氏・大蔵伝承-」, 笹生 衛, 季刊考古学 別冊, 22, 111, 121, 2015年04月25日, 雄山閣, 5世紀代の日本列島に展開した祭祀遺跡の立地と出土遺物から、大和王権と地方における祭祀との関係、大和王権が地方首長に朝鮮半島から渡来した鉄製品、最新の鍛冶・紡織・窯業技術で作られた捧げ物を供与、地域の首長は、それを使い祭祀を行う形を確認した。また、その背景には、大和王権の物資集積と先進技術掌握があり、それが『古語拾遺』の雄略天皇時代の事跡として記録されたと考えた。
神の籬と神の宮-考古学からみた古代の神籬の実態-, 笹生 衛, 神道宗教, 第238号, 2015年04月25日, 神道宗教学会, 古代の祭祀と密接に関係する神籬の実態について、文献史料に考古資料を加えて検討した。その結果、神霊を招き祭祀の対象とされる榊などの樹枝の神籬は、中近世の古典解釈に依代の考え方を組み合わせたもので、古代の実態を示していない点を確認した。そして、神籬の実態は、4・5世紀の祭祀関連の遺跡で検出した遮蔽・区画施設であり、その目的は、神霊へと穢れなどが及ばないようにし、同時に、神霊の強い霊威が周囲に影響を与えないようにすることにあったと推定した。また、皇祖神を象徴する宝鏡を安置し区画・遮蔽していた神籬は、7世紀中頃、難波長柄豊碕宮が造営されると、その建物配置にあわせて整備され、神宮が成立したと推定した。
古墳の儀礼と死者・死後観-古墳と祖先祭祀・黄泉国との関係-, 笹生 衛, 古事記学, 1, 215, 274, 2015年03月10日, 國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター, 古墳の墳丘、副葬品、埴輪の変遷を3世紀から7世紀まで概観した後、そこから推定できる古代の死者観と祭祀・儀礼について復元を試みた。古墳に遺体を密閉し区画遮蔽する形と、多量の副葬品と飲食を供献する形は、3世紀後半から6世紀代まで継続していたことを確認した。その結果、従来、唱えられてきたような5世紀後半の横穴式石室の導入に伴い、死者・霊魂観の大きな変化があったとは考えられず、併せて関連付けられてきた黄泉の国説話も、古墳の横穴式石室との結びつきを強調するよりも、古事記全体の文脈で理解すべきことを指摘した。
富士の神の起源と歴史-富士山の古代祭祀と中世への移行を中心に―, 笹生 衛, 富士山-その景観と信仰・芸術-, 11, 27, 2014年09月01日, 國學院大學博物館, 富士山に対する信仰と祭祀について、文献史料と考古資料の両面から分析した。その結果、その淵源は5世紀代まで遡る可能性を指摘した。また、古代の富士の神が12世紀代を境に本地垂迹思想に基づき、富士浅間菩薩へと変化した状況も確認し、この変化では頂上への経巻埋納が大きな意味を持っていたことについても指摘した。
古代祭祀の形成と系譜-古墳時代から律令時代の祭具と祭式-, 笹生 衛, 古代文化, 第65巻第3号, 2013年12月30日, 公益財団法人古代学協会, 古墳時代から律令時代への祭祀の変遷を、出土する祭祀遺物(祭具)と祭祀構造(祭式)の面から検討した。その結果、祭具の原形は5世紀代まで遡り、6世紀代、7世紀代の画期を経て、律令祭祀の祭具へとつながっていた。また、『皇太神宮儀式帳』に記された古代の祭式と祭具も、5~7世紀の祭祀遺跡から出土する遺物組成と整合し、その起源が5世紀あることも明らかにした。5世紀は、大王が統治する国家領域の意識が形成された時代でもあり、その中で、後につながる祭具・祭式が形成されたと考えられる点も指摘した。
神宝の成立-組成の意味と背景-, 笹生 衛, 明治聖徳記念学会紀要, 復刻第50号, 2013年11月01日, 明治聖徳記念学会, 平安時代の記録に残る「神宝」の性格と起源を、考古資料との比較から分析した。その結果、神への捧げものである幣帛の起源は古墳時代中ごろの5世紀に遡り、その幣帛が、8世紀後半から9世紀初頭までに、神宝と装束に分離、天皇が捧げる大神宝の内容は、5世紀以来の古い伝統を引き継いでいることを明らかにした。
古代の富士山信仰-浅間神社の古代祭祀と中世への移行-, 笹生 衛, 月刊考古学ジャーナル臨時増刊 №648, 2013年10月30日, ニューサイエンス社, 文献史料と富士山周辺における最近の発掘調査成果を使い、富士山の古代信仰の内容と、その中世への移行状況に検討した。古代、水を恵み噴火する神として浅間の神は信仰されたが、12世紀、富士山頂に大蔵経が埋納されたことで、本地垂迹思想に基づく解釈が加わり、大日如来を本地仏とする中世の信仰へと展開したことを明らかにした。
日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀-主に祭祀遺跡研究の流れと沖ノ島祭祀遺跡の関係から-, 笹生 衛, 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅱ-1, Ⅱ, 1, 43, 61, 2013年03月31日, 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議, 古代祭祀の考古学的な研究の流れを確認しながら、宗像沖ノ島祭祀の性格について検討した。特に、宗像沖ノ島の祭祀は、沖ノ島が航海上重要な機能をもち、その環境の働きそのものに、神を感じ、祭祀を行ったことを明らかにした。
真行寺廃寺-その信仰と郡衙との関係を中心に-, 笹生 衛, 論集「幻の大寺 真行寺」, 35, 49, 2013年02月28日, 山武仏教文化研究会, 上総国武射郡衙に隣接する初期寺院遺跡、真行寺廃寺について、その縁起や考古資料、他の初期寺院との比較から、7世紀末頃の信仰内容について分析した。その結果、本尊は薬師如来の可能性が高く、大祓・放生など天武朝の宗教政策との関連も指摘した。
人形と祓物-土製人形の系譜と祓の性格を中心に-, 笹生 衛, 國學院雑誌, 1267号, 2012年10月15日, 國學院大學, 5世紀から続く土製人形の系譜と、7世紀後半に加わる金属製・木製人形の系譜を考古資料と文献史料から検討した。その結果、8・9世紀には、伝統的な捧げる人形の系譜と7世紀に加わる道教呪術に由来する除災・除病の人形が併存していた可能性を指摘した。
「祖・おや」の信仰と系譜-考古資料と集落・墓域の景観から見た古代の祖先祭祀-, 笹生 衛, 國學院大學研究開発推進機構紀要, 第3号, 2011年03月31日, 國學院大學研究開発推進機構, 『記紀』『風土記』における「祖」の用例を概観し、埼玉県埼玉古墳群稲荷山古墳出土の鉄剣銘の「上祖」と比較検討するとともに、千葉県千葉市の「おゆみの地区」遺跡群の高沢遺跡周辺の集落と古墳群の景観変遷の分析を行い、古代における「祖」に対する意識と祭祀の在り方を検討した。その結果、「祖」の意識・信仰は、5世紀以来の系譜を持ち9世紀頃まで継続し、地域の景観の精神的な裏付けとなっていたことを明らかにした。また、「祖」に対する祭祀は、貴重な品を捧げ酒食で饗応するという、「神」と同じ方法で祭られていたことも指摘した。
古代の祭りと幣帛・神饌・神庫-古墳時代の祭祀遺跡・遺物から復元する祭具と祭式-, 笹生 衛, 延喜式研究, 27, 2011年03月31日, 延喜式研究会, 古墳時代の祭祀遺跡から出土する鉄製品や紡織具、調理具等を分析し、5世紀代に、令制祭祀における供献品の原形が成立することを指摘した。また、『皇太神宮儀式帳』の分析から、古代祭祀の構成、祭式の内容を整理し、その祭式の内容と5世紀代の祭祀遺跡から出土する遺物とが整合することも指摘し、古墳時代の祭祀と律令時代のそれとの連続性を確認した。
沖ノ島祭祀遺跡における遺物組成と祭祀構造-鉄製品・金属製模造品を中心に-, 笹生 衛, 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅰ, 297, 328, 2011年03月31日, 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議, 宗像沖ノ島祭祀遺跡の出土遺物の組成を再確認し、『皇太神宮儀式帳』の祭式と比較することで、沖ノ島祭祀の構造と性格を考えた。その結果、巨岩は神霊の存在を象徴する「御形」であり、巨岩周辺から出土する遺物は、祭祀後に神霊の御形の近くへ納めた供献品である可能性を指摘した。
古墳時代における祭具の再検討-千束台遺跡祭祀遺構の分析と鉄製品の評価を中心に-, 笹生 衛, 國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要, 第2号, 91, 112, 2010年03月31日, 國學院大學伝統文化リサーチセンター, 従来、古墳時代の祭祀遺物の研究は、石製・土製模造品など模造品類を中心に進められてきたが、保存状況の良好な5世紀中頃の祭祀遺構(千葉県木更津市千束台遺跡)を分析した結果、石製・土製模造品の他、一定量の鉄製品が使用されたことが明らかとなり、紡織具模造品から布帛類の存在も推定できた。類似した状況は、愛媛県松前町出作遺跡など、5世紀代の祭祀遺構では東国・西国を問わず確認でき、出土遺物の組成から祭祀の中心的な供献品は、鉄製の武器・武具と農・工具、布帛類、鉄素材の鉄鋌、初期須恵器で構成されていたと考えられる。この供献品のセットは、5世紀前半から中頃までに、朝鮮半島からもたらされた貴重な鉄素材や最新の鍛冶・紡織・窯業技術を導入して作られ、当時の最上の品々として神々に供えられていたのである。また、この品々の組成は、『延喜式』神祇四時祭の祈年祭・月次祭などの幣帛と共通点が認められ、5世紀中頃までに成立した供献品のセットは、令制祭祀の幣帛の原形となっていたと考えられる。
祭祀遺跡の分布と変遷から見た東国神郡の歴史的背景-安房国安房郡の事例を中心に-, 笹生 衛, 國學院雑誌, 111巻3号, 1, 16, 2010年03月15日, 國學院大學, 本稿では、東国神郡のうち、安房坐神社の安房国安房郡が成立する歴史的背景を、古墳時代の祭祀遺跡の変遷と分布から考察を行った。
安房郡域では、4世紀後半から5世紀前半、海浜部の小滝涼源寺遺跡で祭祀が始まり、そこには大和王権や海上交通との関連を推定できた。5世紀中頃から後半には、安房郡域の広範囲で祭祀の場が形成され、平野部では農業関係の祭祀が確認できる。6世紀後半から7世紀前半には、海浜部でカツオ漁など漁撈活動と祭祀との結び付きが認められ、平野部の祭祀は河川周辺や支谷・丘陵内に移動、農業用水系の再編と谷部開発との関連を想定できる。
神郡の安房郡が成立する背景には、この地域が海上交通上の要衝であると同時に、カツオなど海産物の供給地としての性格があり、神郡が成立する直前の6・7世紀には、水利の再編や支谷内の開発といった農業基盤の整備が進行していたのである。
「瓦塔の景観と滅罪の信仰」, 笹生 衛, 『東アジアの古代文化』, 136号, 2008年08月01日, 大和書房, 東国の8・9世紀代の遺跡から出土する瓦塔について、建てられていた当時の景観を推定し、その景観と経典内容との比較検討から瓦塔の信仰内容の復元を試みたものである。瓦塔の出土状況からは、集落縁辺部の出入り口、見晴らしの良い丘陵上、墓域内といった場所に瓦塔が建てられた景観を復元することができる。この景観は、8世紀当時、多くの僧侶が学習していた『佛頂尊勝陀羅尼経』中の陀羅尼の安置のされ方、それを納めた卒塔婆(塔)のあり方と整合することを指摘し、その造立目的は、『佛頂尊勝陀羅尼経』が説く滅罪にあったことを論述した。
「考古学から見た中世の寺院と堂」, 笹生 衛, 『中世寺院 暴力と景観』, 2007年07月01日, 高志書院, 古代末期(10・11世紀)から中世末期(16世紀)までの寺院・堂の遺構を、政治都市、主要地方都市、村落、都市・村落の外縁部といった立地環境と規模で分類し、それぞれの類型が、どの様な変遷をたどったのか分析したものである。この分析を通じて、12世紀における仏教施設の葬送機能の明確化、経塚の造営を通じた古代寺院の復興や神祇信仰の場の仏教化、13・14世紀における居館と隣接する寺院景観の形成、14~16世紀における村落内の仏教施設と付随する年中行事の成立、その年中行事と現在の民俗行事との連続性などについて指摘した
「中世香取社領の形成」, 笹生 衛, 『鎌倉時代の考古学』, 2006年07月01日, 高志書院, 千葉県香取市内、香取神宮周辺に展開する集落遺跡の動態を紀元後1世紀頃から11世紀までの間で分析し、文献史料に記された中世香取社領の形成過程を明らかにした研究である。6世紀末期、香取神宮に隣接して成立する集落が8・9世紀、中臣・卜部姓の人々が居住する神戸集落へと連続し、8世紀中頃には寺院集落も成立、これと関連する山林内の修行場が形成された。この山林部分は10世紀以降、土器生産集落が成立し山林開発の拠点へと変貌した。この神戸集落と山林部分が、12世紀以降、香取社大禰宜・大中臣氏の中核所領に相当することを指摘し
「考古資料から見た古代の亀卜・卜甲と卜部」, 笹生 衛, 『亀卜』, 2006年05月01日, 臨川書店, 神祇官の卜部が行った亀卜について、出土した卜甲・卜骨をもとに、その変遷と性格を整理・分析したものである。分析の結果、日本における亀卜は、6世紀に朝鮮半島から導入されたもので、その遺物・卜甲は、対馬・壱岐以外に6世紀末期から8世紀初頭を中心に関東南部の海浜部で多く出土しており、その背景にはアワビ・カツオ漁といった漁撈活動や大和王権の東北経営が密接に関連していたことを明らかにした。また、牛骨が出土した祭祀遺構に卜甲が伴う事例と延喜式祝詞の検討を行い、道饗祭などの卜部が関与する祭祀の中には、本来は動物供犠祭祀と
「考古学から見た『日本霊異記』」, 笹生 衛, 『歴史評論』, №668, 2005年12月01日, 校倉書房, 8・9世紀代の集落遺跡の全容が、発掘調査によりほぼ明らかになっている下総国印幡郡内の事例をもとに、『日本霊異記』で語られている僧侶の活動を考古資料から跡づけようとした研究である。印幡郡西部における仏教関連遺跡、初期寺院、集落内の仏教信仰のあり方から、下総国分寺→国分寺と関連する地方の小規模寺院→地方の初期寺院→その周辺の集落という仏教の布教ルートを復元し、集落内での仏教信仰の普及には国分寺や初期寺院の僧の活動が関連していたことを明らかにした。また、このあり方は、『日本霊異記』に見られる官大寺僧侶の地方での
「東国神郡内における古代の神仏関係」, 笹生 衛, 『神道宗教』, 199・200号, 2005年10月01日, 神道宗教学会, 千葉県香取市の香取神宮周辺における古代集落遺跡と仏教関連遺跡の分析をもとに、8・9世紀代、東国の神郡・香取郡内の神仏関係について、神宮周辺の景観の中で具体的に復元を試みた研究である。集落内の遺構や墨書土器の分析の結果、8世紀中頃には香取神宮の神官層が仏教信仰を受容し、神宮との間に一定の距離を置く神仏隔離的な側面も持ちながらも、神戸集落に隣接した寺院集落や山林修行の場を成立させていたことを明らかにした。また、9世紀代には、これらの場所を拠点に神郡内に仏教信仰が広まるとともに、古代の山林修行の場は神官層が山林
「古代村落における祭祀の場と仏教施設」, 季刊『考古学』, 87号, 2004年05月01日, 雄山閣, 東国の古代集落内で展開した神祇祭祀や仏教信仰の具体的なあり方を分析した研究である。分析対象としたのは、千葉県鳴神山遺跡である。ここでは、8世紀末期を境に、古墳時代以来の集落全体が信仰の対象となっていた手捏土器の祭祀から、集落内の単位集団別に受容された供献用墨書土器の祭祀に比重が移っていたことが確認でき、仏教信仰は墨書土器の祭祀と歩調を合わせる形で集落内に浸透していったことを解明した。また、個人祭祀として行われていた墨書土器の祭祀は、10世紀以降、陰陽道祭祀の中へ吸収されていったことも指摘した。
「房総半島における擬餌針の系譜」, 『千葉県立安房博物館研究紀要』, 11, 2004年03月01日, 南関東、三浦半島から房総半島では、古墳時代後期から中世にかけての骨角製擬餌針が出土しており、その機能の年代的な変遷を推定するとともに、その漁撈技術や信仰との関連性について考察を行ったものである。この擬餌針の出土状況や計測値と千葉県立安房博物館に所蔵されている国指定民俗文化財の擬餌針の民俗例とを比較し、古代には主にカツオ釣りに使用されていたこと、中世には多様な魚種を釣る形に発達したことを指摘した。また、古代では「高橋氏文」説話と房総で出土した古墳時代後期のカツオ釣り擬餌針との整合性、中央と地方海産物の神話的
「地域の環境変化と祭祀」, 笹生 衛, 『神道宗教』, 192号, 2003年10月01日, 神道宗教学会, 弥生時代中期(紀元前1世紀)から中世末期(16世紀)までの間の環境変化の中で、信仰・祭祀の場がどのように移動し変遷したかを分析した研究である。分析対象は、房総中部の小糸川流域である。小糸川流域では、1~4世紀頃と10・11世紀頃の2回、大きな環境変化が生じており、その都度、集落、用水・耕地が再編成され、これに連動して祭祀の場や葬送の場も変化していたことが判明した。特に祭祀の場は、集落と耕地・用水系との関係の中で設定される傾向が認められた。そして、各時期の祭祀形態に対応して「地域の神話」が存在し、それが各時
「地下式坑の掘られた風景」, 『戦国時代の考古学』, 2003年06月01日, 高志書院, 従来、葬送施設として見られることが多かった中世地下式坑について、景観復元の視点から分析し直した研究である。分析の結果、15世紀代を中心に、地下式坑は方形竪穴遺構と密接に関係しながら、屋敷地、耕作地などで機能しており、それぞれの場に応じた品物を貯蔵する貯蔵施設であると結論付けた。そして、地下式坑や方形竪穴遺構が集中する遺跡は、墓地と考えられてきたが、地方の流通拠点の場としても機能したことを指摘し、そのような場は15世紀前半代の経済の活況期に、鎌倉の流通拠点機能が地方へと分散する過程で成立したものと推定した。
「集落遺跡の地域動態と墨書土器の出土量変化」, 笹生 衛, 『史館』, 32号, 2003年05月01日, 史館同人, どの程度の量の墨書土器が集落遺跡から出土し、その集落遺跡が一定範囲の地域内にどのように分布するかについて分析・研究したものである。分析では6世紀から11世紀までの竪穴住居等の遺構数の変遷と墨書土器の出土量を集計し、6世紀後半以降の集落の地域動態には、8世紀中頃と9世紀後半に画期があったこと、墨書土器量の出土パターンには8世紀後半にピークがあるもの、9世紀後半にピークがあるものが存在したことを指摘できた。8世紀後半をピークとするパターンには律令の地方行政との関係を推定し、9世紀後半をピークとするパターンには
「古代集落の変化と中世的景観の形成」, 笹生 衛, 『千葉県史研究』, 第11号別冊, 2003年03月01日, 千葉県史料研究財団, 房総中部、小糸川流域の弥生時代中期(紀元前1世紀頃)から中世末期(16世紀代)までの集落遺跡と水田・畑、用水路跡、旧河道の位置関係を総合的に分析し、約1700年間における環境変化と集落景観の変化について論述したものである。分析の結果、1~4世紀頃と10・11世紀頃に小糸川支流の埋没・移動など環境に大きな変化を想定でき、その変化を受けて水田や用水路、畑などの耕作地、集落景観が変化したとことを指摘した。また、10世紀代の集落変化は集落の移動ではなく、環境変化や耕作形態の変化に伴う居住形態の変化であったことを解
「千葉県白浜町における元禄汀線の再検討と村落景観の復元」, 笹生 衛, 『千葉県立安房博物館研究紀要』, 10, 2003年03月01日, 千葉県立安房博物館, 1703年の元禄地震で隆起した房総南端海岸線を、地震以前の絵図から復元し、それと関連する集落景観の変化について分析したものである。地震以前の延宝3年絵図との比較から、白浜町砂取・根本地区の旧海岸線は、現在の標高約5.6m前後の場所に位置していることを証明し、元禄地震で隆起したとされている沼Ⅳ面の一部に、地震以前から陸化していた部分が含まれていたことを解明した。また、この隆起により、新たな水田や畑の開発が行われ、丘陵沿いに展開した集落景観が、元禄地震後、江戸時代後期までには、海に近い範囲にまで拡大し、現在の
「古代仏教の民間における広がりと受容」, 笹生 衛, 『古代』, 第111号, 2002年12月01日, 早稲田大学考古学会, 千葉県内で仏教関連の遺構や遺物が出土した遺跡を取りあげ、8・9世紀代に仏教が集落や地域内で如何に受容されていったかたを論述した。分析の結果、8世紀後半に山林内には多数の寺院が成立し、9世紀前半に寺院規模を拡大させたこと、8世紀末期から9世紀前半にかけて集落遺跡内で豊富に仏教関連遺物が出土し、村寺や村堂などの仏教施設が展開していたことを明らかにした。この背景には、8世紀中頃、国分寺を通じて地方へと導入された中国仏教が影響していたこと、8世紀末期以降、活発化する国分寺や初期寺院の布教活動が存在したことを指摘し
「東国古代集落内の仏教信仰と神祇信仰」, 笹生 衛, 『祭祀考古学』, 第3号, 2002年03月01日, 祭祀考古学会, 東国の8・9世紀の集落内で展開した神祇・道教信仰と仏教信仰の具体的なあり方について論述したもの。神祇祭祀では、6・7世紀以来の伝統的な祭具・手捏土器や祭神名・国玉神などが存在し、古墳時代以来の祭祀の伝統が残されていたと同時に、8世紀後半代には道教的な要素が人面墨書土器や供献用の墨書土器に見られるようになっている。これに連動する形で、8世紀後半以降、仏教信仰が集落内に浸透しており、8世紀後半から9世紀には、集落内に神祇・道教信仰と仏教信仰が混在していたこと、神祇信仰の面的な広がりの上に、仏教信仰は拠点的な施
「東国中世村落の景観変化と画期」, 笹生 衛, 『千葉県史研究』, 第7号, 1999年03月01日, 千葉県史料研究財団, 房総中部、小糸川流域に立地する中世集落遺跡の空間分析から、中世集落の具体的な景観復元とその変遷の画期に関して研究したものである。分析の結果、この地域では12世紀後半には中世の屋敷地が成立し、14世紀代の中世前半までは、中核となる大規模で継続的な屋敷地を中心に、周囲に小規模な屋敷地が緩やかに纏まった集落景観であったことを解明した。そして、その集落景観の一部は、15世紀代には街道に面した部分に屋敷地が集中する街路型集村を形成し、近世へと移行すると推定した。このように集落景観が変化する背景には、14世紀以降の農
「考古学から見た中世寺社」, 笹生 衛, 『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』, 第8集, 1997年06月01日, 帝京大学山梨文化財研究所, 全国の中世寺院の遺跡の中で、特徴的な事例をもとに中世寺院遺跡の類型化とその変遷過程を論述したものである。まず、12世紀から16世紀までの間の寺院・仏堂関連遺跡を、古代寺院系中世寺院、氏寺系寺院、村や宿市の寺堂・墓堂に分類し、11世紀代から16世紀代までに5段階の変遷を経て中世寺院遺跡が展開していたことを解明した。そして、中世寺院が確立する12世紀後半代、中世寺院が解体へと向かう15世紀後半代に大きな画期があり、中世墓域の変遷と類似している点について言及し、さらに、中世寺院の中には、古代以来の系譜が考古学的
「上総国畔蒜庄横田郷の荘園調査報告」, 笹生 衛, 『千葉県史研究』, 第3号, 1995年03月01日, 千葉県史料研究財団, 笹生衛、柴田龍司、鈴木哲雄、湯浅治久, 禁裏御料所であった上総国畔蒜庄横田郷の現地調査の報告である。畔蒜庄横田郷には、応永18年の検注帳案、応永23年の名寄帳が残されており、15世紀初頭に郷内に存在した寺社名、住人の名前、水田などの地名を知ることができる。これらの寺社名や地名の多くは、現在の横田地区で確認でき、これに微地形の状況、古代・中世の土器・陶磁器などの散布状況、周辺遺跡の発掘調査成果を総合的に分析することで、小櫃川沿いに展開した当時の村落景観の復元を行った。
「東国における中世墓地の諸相」, 笹生 衛, 『千葉県文化財センター研究紀要』, 16, 1995年01月01日, 千葉県文化財センター, 東国、特に房総の事例を中心に12世紀から16世紀までの墓域景観の性格と変遷について論述したもの。まず、東国の墓域を、武士層型墓域、供養塔・寺院型墓域、土豪層主導型墓域、上層農民層主導集団墓型墓域、農民層屋敷・垣内型墓域に分類した。そして、墓域は10世紀代から16世紀代まで6段階の変遷を経て、古代末期から中世へ、そして近世へと変化していったことを指摘した。その中で、13世紀後半には、鎌倉の葬制が地方へと移入された点、15世紀代に造墓層が拡大し、集団墓に代表される墓域景観が形成されたことも指摘した。
「古代仏教信仰の一側面」, 笹生 衛, 『古代文化』, 第46巻12号, 1994年12月01日, 財団法人古代学協会, 千葉県内の奈良・平安時代の集落遺跡から出土する仏教信仰に関連する遺構・遺物を分析し、古代の寺院以外で展開した仏教信仰の実態について研究したものである。仏教信仰に関連する施設には、仏教儀礼の執行可能な四面庇付建物の大規模な堂から瓦塔などの小規模な堂などがあり、さらに仏堂が存在せず、仏具のみが出土する集落遺跡までが階層的に存在したことを指摘した。また、これらの仏教関連遺跡には、山林内に営まれた寺院集落、村落内の村寺・村堂など多様な性格が推定でき、これらの遺跡は、8世紀末期を画期として広範囲に広がっていったこと
「日本古代の村落と開発に対するコメント」, 笹生 衛, 『歴史学研究』, №638, 1992年10月01日, 歴史学研究会, 千葉県内の北総台地上に立地する集落遺跡と耕地の開発に関する研究である。北総台地では、六世紀後半以降、集落遺跡が各地で成立し、その周囲では畑跡が発見されており、6世紀後半に開発の画期が存在し、それは8世紀後半にさらに拡大する傾向が認められ、その後、10世紀以降、急速に遺構が減少し集落が消滅に向かう。一方、沖積地の市原条里制遺跡では、10・11世紀代に広範囲に条里水田が拓かれており、両者の変化には密接な関連が予想され、10・11世紀代の沖積地での条里水田の整備は、6世紀以来の台地上の集落に大きな変化を与えたこ
「房総の中世土器様相について」, 笹生 衛, 『史館』, 第23号, 1991年12月01日, 史館同人, 千葉県内の中世遺跡から出土する土器・陶磁器の様相を12世紀から16世紀にかけて編年的に整理した研究である。土師質のカワラケの型式分類を軸として共伴する常滑・渥美窯製品、瀬戸製品、貿易陶磁器の組成を7段階に整理して論述してた。また、土師質のカワラケの生産体制については14世紀代を境に荘園公領制に付属した給免田体制から荘園公領の領域を越えた広域流通体制に移行したこと、また、13世紀後半以降、瀬戸製品・貿易陶磁器が鎌倉を中心に供給されていたことも指摘した。
「千葉県の古代末期集落遺跡」, 笹生 衛, 『千葉史学』, 第17号, 1990年11月01日, 千葉史学会, 千葉県内の奈良・平安時代の集落遺跡の中で、8世紀から11世紀代までの竪穴住居等の数量変化を分析し、古代の集落が変化する過程を分析したものである。その結果、北総台地上の集落遺跡では、9世紀後半に竪穴住居数がピークに達した後、10世紀前半に急速に竪穴住居数が減少・消滅に向かう例が多く、沖積平野に面した部分では集落が残存すること、また、土器生産や金属生産等の手工業に関係する集落遺跡は11世紀代にかけて逆に竪穴住居数が増加する傾向を指摘した。その歴史的背景には、沖積平野での耕地の再開発、集約的な手工業生産等、中世
「房総における中世的土器様相の成立過程」, 笹生 衛, 『史館』, 第21号, 1989年05月01日, 史館同人, 南関東、房総における古代末期の土器様相から中世の土器様相が成立する過程を解明した研究である。9世紀代から13世紀代にかけての土器編年を8段階に整理し、灰釉陶器椀類の編年や平安京の土師器皿類との法量比較等から、編年各段階の年代を推定した。また、10世紀後半から11世紀前半を画期として黒色土器椀と土師器皿類で構成される土器組成が成立し、11世紀後半以降、黒色土器が消滅、土師質土器の大小の皿類で構成される中世的な土器様相が成立することを明らかにした。さらに10世紀前後の土器生産集落の事例から、集中的に量産を行う
「奈良・平安時代における疫神観の諸相」, 笹生 衛, 『平安時代の神社と祭祀』, 1986年11月01日, 国書刊行会, 奈良・平安時代に東国を中心に出土する杯・皿形の人面墨書土器に関する研究である。杯形人面土器は、8世紀後半から9世紀代にかけて地方の集落や官衙遺跡から出土することを明らかにし、畿内の壺・甕形の人面墨書土器が疫神を流し祓うのに使用されたのとは異なり、疫神を饗応する伝統的な疫神観に基づき使用された祭具であることを指摘した。また、皿形人面土器は、10世紀以降中世にかけて見られるようになり、陰陽道祭祀と関連しながら使用されたことを論述した。