反自然主義的道徳実在論の擁護―体系的な存在論的反自然主義の構想の一部として, 金杉武司, 國學院雑誌, 123, 11, 161, 175, 2022年11月15日, 國學院大學, 反自然主義的道徳実在論(メタ倫理学における存在論的反自然主義)は、心の哲学における存在論的反自然主義の擁護論と同型の議論によって擁護可能である。その同型性は、クオリアと道徳的性質がともに世界の一つの有視点的側面であり、自然科学的性質に付随することが説明可能な世界の無視点的側面とは根本的に異なるものだとする多面説的実在論に基づくものである。この多面説的実在論によって体系的な存在論的反自然主義を構想することができる。
An Explanation of Hallucination and Illusion by the Direct Perception Theory, Takeshi Kanasugi, 國學院雑誌, 123, 4, 1, 29, 2022年04月15日, 國學院大學, 直接知覚説は、素朴実在論(真正な知覚が外的世界の事物やその性質の現前化であるとする考え)を前提とする知覚の哲学的理論である。本稿では、この直接知覚説が識別不可能性テーゼ(どの真正な知覚にも対応してそれとは主観的に識別不可能な幻覚や錯覚が存在しうるということ)の成立を説明できるということを示すことによって、直接知覚説が「最良の説明への推論」の評価基準を最も良く満たす最良の哲学的知覚理論であるということを示す。
An Assessment of the Philosophical Theories of Perception and the Issues the Direct Perception Theory Needs to Address, Takeshi Kanasugi, 『國學院雑誌』, 122, 4, 1, 21, 2021年04月15日, 國學院大學, 哲学的理論は、最良の説明への推論の評価基準を満たすべきである。その一つである包括性基準を満たすには、共通要素原理を肯定し素朴実在論を否定する理論はなぜ素朴実在論が知覚の日常的理解に含まれるのかを説明する必要があるが、そのような諸理論はいずれもその点に成功していない。他方で、素朴実在論を肯定し共通要素原理を否定する直接知覚説は、共通要素原理を利用せずに識別不可能性の見方を説明するという課題に取り組まなければならない。
The Hard Problem of Consciousness and the Perspectivalness of Phenomenal Properties, Takeshi Kanasugi, 『國學院大學紀要』, 59, 1, 13, 2021年02月14日, 國學院大學, 現象的性質はいかにして自然的世界のうちに位置づけられうるのかという「意識のハード・プロブレム」に対して、現象的性質に関する反物理主義は、ハード・プロブレムは解決不可能であると主張する。この主張を擁護するいくつかの議論の中でも「知識論証」は、現象的性質が有視点的な存在者であることを強く示唆する点で、最も適切な議論であると考えられる。本稿では、知識論証に対する反論に再反論することによって知識論証を擁護することを試みる。
「道徳の自然化と反自然主義的な道徳的実在論の一つの可能性」, 金杉武司, 『國學院雑誌』, 120, 9, 15, 32, 2019年09月15日, 國學院大學, 道徳的価値が多元的なものだとすれば、内在的な道徳的価値は行為の実在的性質としては自然化されえない。それゆえ、自然主義は反実在論的を唱え、内在的な道徳的価値の実在性にコミットする反自然主義的な実在論を「誤った」メタ倫理学理論として却けることになる。これに対して、内在的な道徳的価値の実在性を多面的で公共的な世界のうちに位置づける反自然主義的な実在論が正しいメタ倫理学理論として認められうる十分な理由があることを示す。
「他者と心の多面性―野矢茂樹『心という難問―空間・身体・意味』を読む―」, 金杉武司, 『科学哲学』, 51, 1, 59, 78, 2018年07月31日, 日本科学哲学会, 野矢はこれまで「意味=相貌の他者」を「規範の他者」として捉える他者論を提示してきた。しかし、野矢は本書において、「意味=相貌の他者」に、「個人的相貌の他者」という、「規範の他者」とは異なる面があることを示す新たな他者論を展開している。しかし、野矢は、他者と心が持つさらに別の面、すなわち、「存在/感受性の他者」と、「眺望との出会い=経験」という意味での「心」についても語られなければならない。
「クオリアの問題を物理主義は解決できるのか」, 金杉武司, 『國學院雑誌』, 第115巻2号, 1, 15, 2014年02月15日, 國學院大學, クオリアを物理的世界のうちに位置づけることは不可能であるという議論に対して、物理主義の側からいくつかの反論が提示されているが、いずれの反論も説明ギャップの存在を否定できない限りにおいて、その妥当性は十分でない。また、説明ギャップの存在を認めるタイプの物理主義には、クオリアが物理学的存在者によって必然化されていると主張するに十分な説得力がない。この限りで、創発主義の方が支持されるべきである。
「行動科学の哲学―行動科学の多様性とインターフェース問題―」, 金杉武司, 『行動科学』, 第51巻2号, 135, 142, 2013年03月01日, 日本行動科学学会, 行動科学は非常に多様な心理学理論から成る学問領域であるが、主体の部分を研究対象とするサブパーソナルレベルの諸理論は、科学的実践の眼目を共有しているがゆえに、ボトムアップの規定関係を成すものとして理解されるべきである。しかし、主体を全体として研究対象とするパーソナルレベルの日常心理学は、それらとは異なる社会的(規範的)実践の眼目を持つがゆえに、他の諸理論から独立に成立するものとして理解されるべきである。
「自己欺瞞のパラドクスと自己概念の多面性」, 金杉武司, 『科学哲学』, 第45巻第2号, 47, 63, 2012年12月20日, 日本科学哲学会, 自己欺瞞は伝統的に、Pでないという信念を所有しているにもかかわらず、Pであってほしいという欲求によって動機づけられて、意図的に自らを欺き、Pであるという信念を形成する現象として理解されてきた。この伝統的理解は二つのパラドクスに直面すると言わる。しかし、自己欺瞞はあくまでも伝統的理解の枠組みで理解されるべきであり、自己概念が多面的なものであることを理解すれば、伝統的理解の下でパラドクスを部分的に回避することが可能である。
「行為の反因果説の可能性―意志の弱さの問題と行為の合理的説明―」, 金杉武司, 『哲学』, 第63号, 201, 216, 2012年04月01日, 日本哲学会, 行為の動機づけは行為の因果説によって説明されるべきではない。行為の因果説では、行為者が因果的力の前に為す術もない受動的存在になり、自由な行為の主体として理解できなくなるからである。行為の動機づけは一般に、すべてを考慮する限りでの判断(ATC判断)を経る実践的推論の合理性によって説明されるべきである。これは意志の弱い行為についても同様であり、その動機づけは認知状況拘束的なATC判断と俯瞰的ATC判断の区別によって説明される。
「自己知・合理性・コミットメント―英語圏の心の哲学における自己知論の現在―」(特集 シンポジウム 現象学と一人称的経験の問題), 金杉武司, 『現象学年報』, 第27号, 11, 21, 2011年11月05日, 日本現象学会, 近年、心の哲学では、現象学ではこれまで十分に光を当てられてこなかったように思われる「合理性」や「コミットメント」といった自己知の(特に命題的態度の直接的自己知に典型的に見られる)側面に光を当てる試みが示されている。「コミットメント」の側面を重視するコミットメント説の自己知論をさらに展開すると、命題的態度の直接的自己知は、主体の合理的能力と実践的能力を具現する技能知によって支えられた知識として理解することができる。
「心的因果の問題とシューメイカーの性質の形而上学」, 金杉武司, 『科学基礎論研究』, 第112号, 39, 48, 2009年11月25日, 科学基礎論学会, 心的因果の問題は、二元論だけでなく物理主義にとっても大きな問題となる。それは、物理主義者もまた、心的性質の多型実現可能性を認める限り、心的性質を物理的性質と同一視することができず、それゆえ心的性質を物理的な因果関係から排除することになるからである。物理主義がこの心的因果の問題を解決するためには、性質の形而上学としてシューメイカーの「還元的因果説に基づく実現理論」を選択しなければならない。
「「人間とは何か?」という問いはいかなる問いなのか?」, 金杉武司, 『総合研究』, No.20・21合併号, 5, 19, 2008年03月01日, 高千穂大学総合研究所, 「人間とは何か」という問いは文化人類学や自然人類学においても問われる。これに対して、哲学における「人間とは何か」という問いは、いかなる問いなのだろうか。哲学におけるその問いは、われわれが日常的に漠然と「人間」と呼ぶものの本質は何かを問う問いであり、概念的にだけでなく経験的にも探究されるべき記述的な側面を持つ一方で、望ましい人間のあり方を追求する規範的な側面をも持つ問いである。
「自己知はなぜ成立するのか?」, 金杉武司, 『高千穂論叢』, 第41巻第3号, 135, 160, 2006年11月14日, 高千穂大学商学会, 自己知には他者知や外界知にはない「不可謬性」「自己告知性」「直接性」などの特殊性がある。これらの特殊性を説明することは非常に困難な課題である。たとえば、知覚的知識をモデルにして自己知を説明する「知覚モデル」では自己告知性を説明できない。また、心の本質を主体の合理性に見出し、主体が合理的であるためには自己知が成立する必要があるとする「合理性モデル」では直接性を説明できない。これらに代わる説明モデルが必要である。
「死は(なぜ)不幸なことなのか?」, 金杉武司, 『高千穂論叢』, 第40巻第3号, 87, 101, 2006年01月17日, 高千穂大学商学会, 人は普通、死ほど不幸なことはないと考える。しかし、死はなぜ不幸なことなのだろうか。そもそも死は本当に不幸なことなのだろうか。死の不幸を経験や状態としての不幸と考えると、死が不幸であることが説明できなくなる。なぜなら、死んでしまった人はもはや存在しない以上、いかなる経験もしないし、いかなる状態にもならないからである。死の不幸とは、むしろ、そこで幕を閉じざるをえない人生全体の不幸として理解されるべきである。
「技術倫理教育の方法論に関する考察―一般原則と事例分析の意義―」, 金杉武司, 『哲学・科学史論叢』, 第6号, 23, 44, 2004年01月31日, 東京大学教養学部哲学・科学史部会, 技術倫理の教科書の多くでは事例分析が多用されている。これに対しては、倫理学教育にとって事例分析は本質的ではない、あるいは不適切でさえあるのではないかという疑念がしばしば生じる。しかし、倫理的価値は体系化不可能であり、それゆえ、倫理的知識とは、個々の文脈に即して「何をなすべきか」を判断する実践的能力に他ならない。事例分析を多用する技術倫理教育は、この限りにおいて適切な方法論をとっていると言える。
「解釈主義と不合理性」, 金杉武司, 『科学哲学』, 第36巻第1号, 43, 55, 2003年07月25日, 日本科学哲学会, 解釈では、主体の合理性を前提しなければならない。したがって、一見する限り、不合理性を解釈のうちに位置づけることはできないように思われる。しかし、それは、合理性が「合理的か不合理かのどちらか」という一枚岩的構造を持つと考えるためである。合理性は、むしろ、全体としての概ねの合理性を背景に局所的な不合理性を許容する「支えあい構造」を持つと考えられる。それゆえ、不合理性は解釈のうちに位置づけることができる。
「解釈主義と消去主義―命題的態度の実践的実在性―」, 金杉武司, 『哲学・科学史論叢』, 第5号, 63, 99, 2003年01月31日, 東京大学教養学部哲学・科学史部会, 解釈主義によれば、個々の命題的態度は個々の脳状態との同一性に基づいて実在性を保証することができない。それゆえ、消去主義によれば、命題的態度はその実在性を認めることができない。しかし、消去主義は還元主義を前提している点で不当である。実在性を実践における有効性という観点からとらえるならば、解釈実践の有効性に基づいて、解釈主義においても命題的態度の実在性を認めることは十分に可能である。
「心の哲学における解釈主義―命題的態度とは何か?―」, 金杉武司, 博士学位論文, 2002年12月13日, 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻, 主体がある命題的態度を持っているということを、その主体の行為を解釈すればその命題的態度が帰属させられるということとして理解する「解釈主義」は、現代の心の哲学においてもっとも有力な立場であると考えられる。この解釈主義が抱えるさまざまな内在的問題について考察することによって、解釈とはどのような実践であるのか、解釈知とはどのような知識なのか、解釈主義とはどのような立場であるのかをより明らかにする。
「動物は思考しうるか?―解釈主義的観点からの思考と言語の関係に関する考察―」, 金杉武司, 『哲学の探求』, 第29号, 59, 73, 2002年05月18日, 哲学若手研究者フォーラム, 解釈において命題的態度を帰属させうる主体とはどのような主体であるのか。「意味論的内包性」「信念の誤りの認識能力」という命題的態度の二つの本質は、「可能性の世界の想定」という論点の二側面として理解することができる。そして、可能性の世界を想定するということは、別の対象に見立てられたある対象を仮想的に組み合わせることに他ならず、これは実質的に言語を使用するということに他ならない。
「不合理性のパラドクス―解釈主義の観点から―」, 金杉武司, 『科学史・科学哲学』, 第16号, 74, 86, 2001年04月01日, 東京大学科学史・科学哲学研究室内 科学史・科学哲学刊行会, 解釈では、主体の合理性を前提しなければならない。したがって、一見する限り、不合理性を解釈のうちに位置づけることはできないように思われる。しかし、解釈における理解には「合理性に基づく理解」と、必ずしも完全な合理性を求めない「常識的な理解」の二つがある。そして、命題的態度の理解が前者の理解であるのに対して、主体の理解は後者の理解であると考えられる。それゆえ、不合理性を解釈のうちに位置づけることができる。
「一人称権威と他者の心―解釈主義の観点から―」, 金杉武司, 『科学史・科学哲学』, 第15号, 65, 76, 2000年05月20日, 東京大学科学史・科学哲学研究室内 科学史・科学哲学刊行会, 解釈主義では、解釈という三人称的観点から心(命題的態度)を理解するため、他我問題は解消される。しかし、自分の心までも三人称的に理解されるため、主体の思考内容に関する一人称権威が脅かされるように思われる。これに対して、「主体の思考内容に関する一人称権威が解釈の前提である」というD・デイヴィドソンの主張の内実を明確化することによって、他我問題の解消と一人称権威の保証が両立可能であることを示す。
「解釈主義と一人称権威」, 金杉武司, 『科学基礎論研究』, 第94号, 29, 34, 2000年03月31日, 科学基礎論学会, 解釈主義では、解釈という三人称的観点から心(命題的態度)を理解するため、自分の心までも三人称的に理解され、思考内容の知識に関する一人称権威が脅かされるように思われる。この疑念に対して、D・デイヴィドソンの議論を手掛かりに、解釈に関する自己知が、事実知としてではなく、方法知として理解されるべきものであるということを明らかにすることによって、解釈主義においても一人称権威が成立するということを保証する。
「言語・思考・解釈―動物は思考するか?―」, 金杉武司, 『哲学・科学史論叢』, 第1号, 131, 156, 1999年01月31日, 東京大学教養学部哲学・科学史部会, われわれは、欲求や信念を主体に帰属させることでその主体の行動を解釈する。この解釈に関しては、言語を使用しない主体もそのように解釈することができるのかという問題がある。これに対して、信念を単なる傾向性と区別するためには信念の概念の所有が必要であること、信念の概念を持つということは矛盾の概念を持つことであるということに基づいて、解釈可能な主体であるには、言語使用者である必要があるということを示す。
「質と心身問題―「感覚質の消去」は何を消去したのか?―」, 金杉武司, 『科学史・科学哲学』, 第14号, 47, 56, 1998年03月31日, 東京大学科学史・科学哲学研究室内 科学史・科学哲学刊行会, 【本稿は修士学位論文の内容を短くまとめたものである】「意識に立ち現れてくるものの質的特徴は、物理主義的な心の哲学によってはとらえることができない」という直観は、私秘的な存在としての感覚質に訴える限りでは、「感覚質の消去」の議論によって否定されてしまう。しかしこの直観は、「物理的なものが視点脈絡非依存的な(公共的)存在であるのに対して、質的なものは視点脈絡依存的な(公共的)存在である」という見解によって擁護可能である。
「質と心身問題」, 金杉武司, 修士学位論文, 1997年01月16日, 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻, 「意識に立ち現れてくるものの質的特徴は、物理主義的な心の哲学によってはとらえることができない」という直観は、私秘的な存在としての感覚質に訴える限りでは、「感覚質の消去」の議論によって否定されてしまう。しかしこの直観は、「物理的なものが視点脈絡非依存的な(公共的)存在であるのに対して、質的なものは視点脈絡依存的な(公共的)存在である」という見解によって擁護可能である。
心・魂・精神―心の科学の時代に哲学は心について何を言えるのか?―(座談会記事), 金杉武司・木原志乃・小手川正二郎・西村洋平・染谷昌義, 國學院雑誌, 117, 2, 37, 68, 2016年02月15日, 國學院大學, 脳科学が目覚ましい発展を続け、脳を理解することが心を理解することに他ならないと考えられるようになってきた現代は「心の科学の時代」とも呼ばれる。この現代において、哲学が心について何を言えるのか、というテーマでの座談会の記録である。現代英米哲学、生態学的心理学、現象学、古代ギリシア哲学といった多様な観点から、さまざまな論点が提示された。企画立案・司会者:金杉武司/他の参加者:木原志乃、小手川正二郎、西村洋平、染谷昌義
書評:山口尚『クオリアの哲学と知識論証』(春秋社、2012年刊), 金杉武司, 『科学哲学』, 第46巻2号, 52, 55, 2013年12月20日, 日本科学哲学会, 本書は、F・ジャクソンの知識論証について考察することを通して、非常にラディカルな物理主義である「タイプA物理主義」の擁護を試みる意欲的な著作である。しかし、本書は「教科書的な」科学的知識だけからは得られない知識があることを認めている限りにおいて、タイプB物理主義の論駁に失敗していると考えられ、また本書の考察に従う限りでは「説明ギャップ」の存在は否定できず、タイプA物理主義の擁護もまた失敗していると考えられる。
『科学・技術・倫理百科事典』, 2012年01月31日, 丸善出版
書評:柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲―非合理性の哲学入門―』(勁草書房、2007年刊), 『科学史・科学哲学』, 第21号, 85, 90, 2008年03月31日, 東京大学科学史・科学哲学研究室内 科学史・科学哲学刊行会, 柏端の著作は、自己欺瞞を本質的に動的な過程として捉える点で、また自己犠牲を主体自身の判断に反して行われる共同行為として捉える点で、それらの議論に新しい視点を持ち込んだものとして高く評価できる。ただし、いくつかの疑問も残る。たとえば、自己犠牲的行為が主体自身の判断に反する行為だとすると、それは行為者個人の意図的行為としては理解できなくなるのではないか。また、自己犠牲にとって共同性は本当に本質的なものなのだろうか。
翻訳:ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』, 2007年12月25日, 春秋社, D. Davidson, Problems of Rationality, Oxford UP, 2004の翻訳。概要:本書は、デイヴィドソンの心・行為の哲学と言語哲学を統一的視点から結びつけ、デイヴィドソンの哲学大系全体を明らかにするような諸論文を収めたデイヴィドソンの第四論文集である。また本書は、意志の弱さや自己欺瞞などの「不合理性」の可能性を検討することによってデイヴィドソン哲学の最重要概念である「合理性」について理解を深めていこうとする諸論文も収めている。
『シリーズ心の哲学 Ⅲ 翻訳篇』, 2004年08月10日, 勁草書房, J・キム、R・G・ミリカン、G・ハーマン、P・M・チャーチランド、T・バージ, J. Kim, "Epiphenomenal and Supervenient Causation, in J. Kim, Supervenience and Mind: Selected Philosophical Essays, Cambridge UP, 1993の翻訳(邦題「随伴的かつ付随的な因果」)。概要:心的性質は、物理的性質に付随すると言えれば、十分な因果的効力を認めることができる。しかし、心的性質が物理的性質に付随するということは心理物理法則が成立するということであり、心的なものの非法則性が否定されるということに他ならない。
書評:河野哲也著『エコロジカルな心の哲学 ―ギブソンの実在論から』(勁草書房、2003年刊), 『科学哲学』, 第37巻1号, 104, 107, 2004年07月25日, 日本科学哲学会, 河野の著作は、第三世代の認知科学の一つである生態学的心理学の哲学的な基礎を、その形而上学まで掘り下げて論じたものである。このような試みはこれまでほとんどなく、その点で本書は高く評価できる。ただし、生態学的心理学の論敵である「表象主義」を単純な代表象説に結びつけて批判している点に疑問を感じる。表象主義とは、認知状態そのものを一つの表象状態として理解する立場のことであり、代表象説は表象主義の一つの立場に過ぎない。
『ハイデガーと認知科学』, 2002年04月04日, 産業図書, H・L・ドレイファス、S・E・ドレイファス、J・ホーグランド、T・ヴァン・ゲルダー、A・クラーク、J・トリビオ、村田純一、山田友幸, A. Clark and J. Toribio, "Doing without Representation?" Synthese, Vol. 101, No. 3, 1994, pp. 401-31の翻訳(邦題「表象なしでやれるのか?」)。概要:認知には表象を必要としないものもあり、その限りで、脳・身体・環境による相互作用的な認知のあり方を重要視する力学系的認知観の表象主義批判は部分的に正しい。しかし、認知には表象が不可欠なものもある。その限りで、認知理論の中からいっさいの表象を排除するのは行き過ぎである。
「自然化された道徳の実践と実在性へのコミットメント」, 金杉武司, 科学基礎論学会秋の研究例会ワークショップ「道徳の自然化:工学的アプローチと道徳実践の行方」, 2018年11月10日, 於:日本大学, 道徳的価値が多元的なものだとすれば、内在的な道徳的価値は行為の実在的性質としては自然化されえない。それゆえ、自然主義は反実在論的を唱え、内在的な道徳的価値の実在性にコミットする反自然主義的な実在論を「誤った」メタ倫理学理論として却けることになる。これに対して、内在的な道徳的価値の実在性を多面的で公共的な世界のうちに位置づける反自然主義的な実在論が正しいメタ倫理学理論として認められうる十分な理由があ
「自然主義的観念論は志向説であり物理主義であると言えるのか?」, 金杉武司, 合同合評会(鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』合評会), 2018年03月22日, 於:東京大学, 本書が唱えている自然主義的観念論は非常に独創的であり、その考え方の中には、物理主義者(自然主義者)ではない論者にも共感できる部分がたくさんあるが、これは逆に言うと、それが本当に意識の自然化に成功していると言えるかどうかは必ずしも明らかではないということを意味する。この疑問は、自然主義的観念論は志向説であると言えるのか、自然主義的観念論は物理主義であると言えるのか、という二つの疑問に分けて問うことができる。
「ラッセルの自然主義?―センスデータ論と常識的実在論 の優劣」, 金杉武司, 合同合評会(髙村夏樹『ラッセルのセンスデータ論[1903-1918]―センスデータ論の破壊と再生』合評会), 2018年03月15日, 於:東京大学, 本書は、ラッセルのセンスデータ論を、「分析の方法」により解釈し、それを斉合的なものとしてできる限り詳細に描き出そうとした、非常に巨大な理論的構築物である。それに対しては、「分析の方法」は方法論的自然主義の先駆か、「分析の方法」において現象学的観点はどのような位置づけを持つのか、多項関係理論にとってマクロ・センシビリアの存在は必要なのか、センスデータ論は常識的実在論よりも妥当な選択肢なのか、といった疑問が生じる。
「反自然主義とは何か?―その動機と課題―」, 金杉武司, 日本科学哲学会大会(ワークショップ「哲学的自然主義のメタ哲学的評価」), 2016年11月20日, 於:信州大学, 認識論的自然主義(アプリオリ主義)に対する認識論的反自然主義(アプリオリ主義)の動機は近代特有の基礎づけ主義であり、現代ではそこに必然性はない。それに対して、存在論的自然主義(一元論)と存在論的反自然主義(多元論)の動機はそれぞれ、世界をより単純なもので説明しようとする発想と世界をありのままに理解しようとする発想であり、拮抗している。ただし、存在論的反自然主義には、多元的な実在性を統一的に捉えるという課題がある。
「説明上のギャップは本当に物理主義にとって無害なものなのか?」, 金杉武司, 科学基礎論学会秋の研究例会(ワークショップ「鈴木貴之著『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』合評会」), 2015年11月07日, 於:東京大学, 本書は、意識の問題における「説明上のギャップ」とは、「われわれ人間には、コウモリが持つのと同様の非命題的知識を持つことができない」ということに過ぎず、物理主義的にも理解可能な無害なものであると論じる。しかし、「仮にそのような非命題的知識を持つことができるとしても、なぜその非命題的知識が得られるのかを物理主義的に説明することができない」ということこそが説明上のギャップの問題なのであり、この無害化の試みには疑問が残る。
「心的因果の説明としてトロープ説は事態説よりも優れているのか」, 金杉武司, 科学基礎論学会秋の研究例会(ワークショップ「〈真にするもの〉の形而上学とトロープ存在論―秋葉剛史『真理から存在へ』を読む」), 2014年11月01日, 於:東京大学, 本書は、トロープ説の優位性を示すための一つの議論として、非還元的物理主義という枠内で考える限り心的因果の説明に実在的基盤を与えるという課題をよりよく達成できるのは事態説ではなくトロープ説だとする主張を展開している。本書は、その議論の一つとして、性質を力能のクラスターと同一視する力能クラスター説を採ることが事態説に不利に働き、トロープ説に有利に働くと論じているが、この主張が本当に成り立つのかについては疑問がある。
「行為の反因果説の可能性―意志の弱さの問題と行為の合理的説明―」, 専修大学哲学会講演, 2013年05月26日, 於:専修大学サテライトキャンパス, 行為の動機づけは行為の因果説によって説明されるべきではない。行為の因果説では、行為者が因果的力の前に為す術もない受動的存在になり、自由な行為の主体として理解できなくなるからである。行為の動機づけは一般に、すべてを考慮する限りでの判断(ATC判断)を経る実践的推論の合理性によって説明されるべきである。これは意志の弱い行為についても同様であり、その動機づけは認知状況拘束的なATC判断と俯瞰的ATC判断の区別によって説明される。
「タイプB物理主義と説明ギャップ論証は論駁されたのか?」, 京都現代哲学コロキアム例会(山口尚『クオリアの哲学と知識論証―メアリーの知ったこと―』(春秋社、2012年刊)合評会), 2012年12月08日, 於:キャンパスプラザ京都, 本書は、F・ジャクソンの知識論証の妥当性について考察することを通して、非常にラディカルな物理主義である「タイプA物理主義」の擁護を試みる意欲的な著作である。しかし、本書の考察に従えば、「説明ギャップ」の存在は認められると考えられ、そのためこの擁護の試みは失敗していると考えられる。さらに、説明ギャップの存在が認められる限り、物理主義は、創発主義に対して自らの存在論的立場の妥当性を擁護することができないと考えられる。
「自己欺瞞のパラドクスと自己概念の多面性」, 科学基礎論学会秋の研究例会ワークショップ「自己欺瞞から見えてくる心―人間理解の前提再考―」, 2012年11月03日, 於:東京大学, 自己欺瞞は伝統的に、Pでないという信念を所有しているにもかかわらず、Pであってほしいという欲求によって動機づけられて、意図的に自らを欺き、Pであるという信念を形成する現象として理解されてきた。この伝統的理解は二つのパラドクスに直面すると言わる。しかし、自己欺瞞はあくまでも伝統的理解の枠組みで理解されるべきであり、自己概念が多面的なものであることを理解すれば、伝統的理解の下でパラドクスを部分的に回避することが可能である。
「行動科学の哲学―行動科学の多様性とインターフェース問題―」, 日本行動科学学会大会特別講演, 2012年09月10日, 於:東邦大学, 行動科学は非常に多様な心理学理論から成る学問領域であるが、主体の部分を研究対象とするサブパーソナルレベルの諸理論は、科学的実践の眼目を共有しているがゆえに、ボトムアップの規定関係を成すものとして理解されるべきである。しかし、主体を全体として研究対象とするパーソナルレベルの日常心理学は、それらとは異なる社会的(規範的)実践の眼目を持つがゆえに、他の諸理論から独立に成立するものとして理解されるべきである。
「自己欺瞞のパラドクス」, 認知哲学研究会(東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)関連イベント), 2011年11月12日, 於:東京大学, 自己欺瞞は伝統的に、Pでないという信念を所有しているにもかかわらず、Pであってほしいという欲求によって動機づけられて、意図的に自らを欺き、Pであるという信念を形成する現象として理解されてきた。この伝統的理解は二つのパラドクスに直面すると言われ、近年ではこの伝統的理解が放棄される傾向が強い。しかし、自己欺瞞は基本的に伝統的理解の枠組みで理解されるべきであり、伝統的理解の下でパラドクスを回避することは可能である。
「反ヒューム主義的な信念・欲求モデルの可能性―意志の弱さの問題を手掛かりに―」, 「信念/欲求」心理モデル研究会(平成21年-22年度科学研究費補助金「現代倫理学における「ヒューム主義」に関する哲学史的研究」に基づく研究集会), 2011年03月24日, 於:南山大学, 信念・欲求モデルによる行為の動機づけの説明には、合理性とは独立の因果性が必要であるという意味での「ヒューム主義」だけでなく、合理性のみで十分であるという意味での「反ヒューム主義」の考え方も可能である。さらに、意志の弱い行為の動機づけを説明するためには、反ヒューム主義的に考える必要がある。さらにそのためには、行為者は俯瞰的視点と認知状況拘束的視点から異なる二つの最善の判断を下していると考える必要がある。
「自己知への合理的実践的アプローチ―英語圏の心の哲学における自己知論の現在―」, 日本現象学会研究大会シンポジウム「現象学と一人称的経験の問題」, 2010年11月27日, 於:東京大学, 近年、心の哲学では、現象学ではこれまで十分に光を当てられてこなかったように思われる「合理性」や「コミットメント」といった自己知の(特に命題的態度の直接的自己知に典型的に見られる)側面に光を当てる試みが示されている。「コミットメント」の側面を重視するコミットメント説の自己知論をさらに展開すると、命題的態度の直接的自己知は、主体の合理的能力と実践的能力を具現する技能知によって支えられた知識として理解することができる。
「自己知はなぜ成立するのか?―合理的実践的技能知に支えられた自己知―」, 科学基礎論学会秋の研究例会ワークショップ「自己知論の現在―合理的実践的アプローチの可能性―」, 2010年11月07日, 於:日本大学, 自己知には他者知や外界知にない「不可謬性」「自己告知性」「直接性」という特殊性がある。自己知における心的状態へのコミットメントのあり方に着目するコミットメント説によれば、自己知の特殊性は、主体が合理的実践者であることから超越論的論証によって帰結する。またコミットメント説は、自己知を合理的で実践的な技能知によって支えられた知識として理解することで、その知識としての内実も説明できる。
「自己知と合理性」, モラル・サイコロジー研究集会(平成21-23年度科学研究費補助金「モラル・サイコロジー」に基づく研究集会), 2009年12月12日, 於:慶應義塾大学, 自己知には他者知や世界知にはない「不可謬性」「自己告知性」「直接性」という特殊性がある。なぜ自己知は成り立つのか。この問いに対して、自己知を知覚的知識と類比的に捉えようとする知覚モデル理論では自己告知性を説明できない。また、心の本質を合理性に見出し、さらに自己知は合理性にとって本質的であると考える合理性理論は、不可謬性と自己告知性を説明できるが、直接性を説明できないという困難に直面してしまう。
「シューメイカーの実現理論―心的因果の問題と物理主義の進むべき道―」, 応用哲学会大会ワークショップ「心的因果の可能性をめぐって―キムの所説を中心に―」, 2009年04月25日, 於:京都大学, 実現性質と被実現性質を同一性で理解しても全くの非同一性で理解しても、心物因果の問題は解決できない。物理主義は、実現性質と被実現性質を部分全体関係で理解するS・シューメイカーの性質の形而上学を選択するべきである。これに対してJ・ハイルは、以上の形而上学では、心的性質と物理的性質の区別が認められなくなると批判するが、この批判は当たらない。性質の階層構造の中で、心的性質と物理的性質は異なる位置づけを与えられる。
「シューメイカーの性質の形而上学と心的因果の問題」, 科学基礎論学会秋の研究例会ワークショップ「シューメイカーの性質因果説の批判的検討」, 2008年11月22日, 於:慶應義塾大学, 心的因果の問題は、二元論だけでなく物理主義にとっても大きな問題となる。それは、物理主義者もまた、心的性質の多型実現可能性を認める限り、心的性質を物理的性質と同一視することができず、それゆえ心的性質を物理的な因果関係から排除することになるからである。物理主義がこの心的因果の問題を解決するためには、性質の形而上学としてシューメイカーの「還元的因果説に基づく実現理論」を選択しなければならない。
「自己知と合理性」, 日本科学哲学会大会, 2004年10月02日, 於:京都大学, 自己知には「直接性」「一人称権威」「自己告知性」という三つの特徴がある。なぜこのような自己知が成立するのか。自己知は伝統的に、「知覚モデル」によって、ある種の知覚として理解されてきた。しかし、この説明モデルでは、自己知の自己告知性を説明できない。むしろ、自己知は、心の本質である「合理性」の一側面であるがゆえに成立すると説明されるべきである。また、それはある種の方法知として理解されるべきものである。
「フォークサイコロジーと消去主義」, 哲学会カント・アーベント, 2003年04月19日, 於:東京大学, 消去主義によれば、コネクショニズムなど近年の認知科学の成果は、フォークサイコロジー(FP)において言及される心的状態の非実在性を示しており、それゆえFPは消去されるべきである。しかし、この消去主義の議論は還元主義を前提している点で不当である。実在性を実践における有効性という観点からとらえる実践的実在論によれば、FPによる解釈実践の有効性に基づいて心的状態の実在性を認めることができる。
「技術倫理教育における事例分析の意義―実践的観点からの倫理学―」, 駒場哲学協会春期フォーラム, 2003年03月31日, 於:東京大学, 技術倫理の教科書の多くでは事例分析が多用されている。これに対しては、倫理学教育にとって事例分析は本質的ではない、あるいは不適切でさえあるのではないかという疑念がしばしば生じる。しかし、倫理的価値は体系化不可能であり、それゆえ、倫理的知識とは、個々の文脈に即して「何をなすべきか」を判断する実践的能力に他ならない。事例分析を多用する技術倫理教育は、この限りにおいて適切な方法論をとっていると言える。
「クオリアの問題とはどのような問題なのか?―ハード・プロブレムと説明のギャップをめぐって―」, 名古屋哲学フォーラム「意識する心をめぐって:David Chalmers, The Conscious Mindの批判的検討」, 2002年09月07日, 於:南山大学, J・レヴァインによれば、ゾンビの思考可能性によって、クオリアに関する反物理主義的な形而上学的帰結を導くD・J・チャルマーズの議論は妥当ではない。物理主義が困難に直面するのは、むしろ「説明のギャップ」という認識論的問題においてであるとレヴァインは言う。しかし、説明のギャップの存在は、結局のところ、物理的性質とは本質的に異なる非物理的性質の存在を示す存在論的な問題を物理主義に投げかけるということを示す。
「動物は思考しうるか?―解釈主義的観点からの思考と言語の関係に関する考察―」, 哲学若手研究者フォーラム, 2001年07月15日, 於:晴海海員会館, 解釈において命題的態度を帰属させうる主体とはどのような主体であるのか。「意味論的内包性」「信念の誤りの認識能力」という命題的態度の二つの本質は、「可能性の世界の想定」という論点の二側面として理解することができる。そして、可能性の世界を想定するということは、別の対象に見立てられたある対象を仮想的に組み合わせることに他ならず、これは実質的に言語を使用するということに他ならない。
「解釈主義と不合理性」, 日本科学哲学会大会, 2000年12月02日, 於:名古屋大学, 解釈では、主体の合理性を前提しなければならない。したがって、一見する限り、不合理性を解釈のうちに位置づけることはできないように思われる。しかし、解釈における理解には「合理性に基づく理解」と、必ずしも完全な合理性を求めない「常識的な理解」の二つがある。そして、命題的態度の理解が前者の理解であるのに対して、主体の理解は後者の理解であると考えられる。それゆえ、不合理性を解釈のうちに位置づけることができる。
「解釈主義と一人称権威」, 科学基礎論学会大会, 1999年05月29日, 於:大阪大学, 解釈主義では、解釈という三人称的観点から心(命題的態度)を理解するため、自分の心までも三人称的に理解され、思考内容の知識に関する一人称権威が脅かされるように思われる。この疑念に対して、D・デイヴィドソンの議論を手掛かりに、解釈に関する自己知が、事実知としてではなく、方法知として理解されるべきものであるということを明らかにすることによって、解釈主義においても一人称権威が成立するということを保証する。
「言語・思考・解釈―動物は思考するか?―」, 駒場哲学協会春期フォーラム, 1998年04月06日, 於:東京大学, われわれは、欲求や信念を主体に帰属させることでその主体の行動を解釈する。この解釈に関しては、言語を使用しない主体もそのように解釈することができるのかという問題がある。これに対して、信念を単なる傾向性と区別するためには信念の概念の所有が必要であること、信念の概念を持つということは矛盾の概念を持つことであるということに基づいて、解釈可能な主体であるには、言語使用者である必要があるということを示す。