「禅林寺宗叡の入唐とその後」, 佐藤長門, 『東アジア文化研究』, 11, 186(1), 166(21), 2024年09月02日, 國學院大學大学院文学研究科, いわゆる入唐八家のひとりに数えられる真言僧の宗叡は、幼少の惟仁親王(清和天皇)に近侍し、その御願をはたすために五臺山への巡礼を決意し、真如の入唐に加わる形で貞観4年(862)に渡海した。入唐後の宗叡はしばらく真如一行と行動をともにしていたが、汴州で玄慶阿闍梨から灌頂を受け、金剛界法を学んだのち、清和天皇の御願をはたすために一行と別れ、五臺山に向かった。五臺山では聖跡を巡礼し、大華厳寺で千僧供養をおこなったのち、長安に入京して青龍寺の法全から灌頂と胎蔵界法を学んだりした。宗叡の行動は、そのほとんどが先輩僧である円仁や円珍の経験・情報にもとづくものであったが、それは短期間の入唐でもっとも効率のよい守行をするために取られた方策であった。帰国後は清和天皇との関係から僧綱のなかで昇進し、元慶3年(879)には僧正に就任した。譲位後の清和天皇が出家すると、宗叡はその受戒をにない、清和が畿内各地の巡行をおこなった際にも同行したが、清和の臨終の際に宗叡が近侍していたかどうかについては不明である。
「禅林寺宗叡の密教修学」, 佐藤長門, 『國學院大學大学院紀要-文学研究科』, 55, 1, 22, 2024年02月29日, 國學院大學大学院, 宗叡は平安時代前期の真言僧で、いわゆる入唐八家のひとりに数えられる人物である。宗叡は当初、比叡山で具足戒を受け、いったん下山して法相宗を学んだのち、園城寺で円珍から両部大法を受けて白山で修行したが、帰京後は比叡山には戻らず東寺に移住し、真紹に師事して皇太子惟仁親王(清和天皇)に近侍する。このように宗叡の密教修学は紆余曲折を経ているが、それはその時期の日本密教が草創期にあたっていたことが影響していた。宗叡は禅林寺僧正、円覚寺僧正、後入唐僧正などと呼ばれており、禅林寺は信条から譲られた寺院、円覚寺は清和天皇が没した寺院で、後入唐は真言宗からみれば空海の次、天台宗からみれば円珍の次に入唐した人物という意味でつけられた。
「奉誄儀礼と王権継承」, 佐藤 長門, 『國學院雑誌』, 121, 11, 84, 102, 2020年11月15日, 國學院大學
奉誄儀礼と王権継承 (特集 『日本書紀』研究の現在と未来), 佐藤 長門, 國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University, 121, 11, 84, 102, 2020年11月, 國學院大學
六世紀初頭~六二八年/『日本書紀』巻第十七~巻第二十二 中央集権体制の構築 : 継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古 (日本書紀 : 編纂一三〇〇年) -- (『日本書紀』を読む), 佐藤 長門, 別冊太陽 : 日本のこころ, 284, 87, 108, 2020年10月, 平凡社
書評 古市晃著『国家形成期の王宮と地域社会 : 記紀・風土記の再解釈』, 佐藤 長門, 日本史研究 = Journal of Japanese history, 697, 49, 56, 2020年09月, 日本史研究会
「八・九世紀の后妃制に関する覚書」, 佐藤 長門, 『古代史論聚』, 251, 265, 2020年08月, 岩田書院
「女帝と王位継承」, 佐藤 長門, 『テーマで学ぶ日本古代史』政治外交編, 112, 122, 2020年06月10日, 吉川弘文館
書評 鈴木琢郎著『日本古代の大臣制』, 佐藤 長門, 歴史評論 = Historical journal, 841, 100, 104, 2020年05月, 歴史科学協議会
「古代国家の形成と修史事業」, 佐藤 長門, 『古事記学』, 6, 119, 138, 2020年03月10日, 國學院大學研究開発推進機構古事記学センター
ディスカッション (国際シンポジウム 古事記と「国家」の形成 : 古代史と考古学の視点から), 谷口 雅博;ケイナー サイモン;笹生 衛;佐藤 長門;李 永植;長友 安隆;山﨑 雅稔, 古事記學 : 國學院大學21世紀研究教育計画委員会研究事業成果報告論集, 6, 139, 152, 2020年03月, 國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター
古代国家の形成と修史事業 (国際シンポジウム 古事記と「国家」の形成 : 古代史と考古学の視点から), 佐藤 長門, 古事記學 : 國學院大學21世紀研究教育計画委員会研究事業成果報告論集, 6, 119, 138, 2020年03月, 國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター
「譲位制の成立とその展開」, 佐藤 長門, 『國學院雑誌』, 120, 11, 97, 116, 2019年11月15日, 國學院大學, 日本古代における譲位制の成立とその展開過程について論じたもの。古代の譲位は八世紀からはじまるが、それは草壁系王統を保持するため、嫡系皇嗣(男性)の女性尊属たちが即位し、皇嗣が成人した曉に譲位したためであった。八世紀半ばの聖武天皇からは、男帝でも譲位するものがあらわれるが、それは後継者の即位の正当性が脆弱の場合にかぎられ、問題がない場合には終身在位していた。九世紀以降になると、王統迭立を経験したこともあり、次第に譲位が優勢となっていき、十世紀後半以降になると譲位形式こそが王位継承の常態であるとの観念が強まり、十一世紀には天皇が死没しても譲位をおこなう“如在之儀”もあらわれるようになる。
譲位制の成立とその展開 (特集 御代替りの歴史と伝統), 佐藤 長門, 國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University, 120, 11, 97, 116, 2019年11月, 國學院大學
「殯と王権継承」, 佐藤 長門, 『古墳と国家形成期の諸問題』, 257, 262, 2019年10月25日, 山川出版社, 令制以前の殯宮儀礼について、それを主宰したキサキが女帝として即位するようになったとの見解を批判したもの。殯の期間中に、王権継承にからむ事件が起きやすかったのは事実であるが、それは殯そのものに次期大王の決定にかかわる特別な意味があったのではなく、殯の期間と代替わりの時期が重なっていたからと考えるべきである。また群臣にとって、殯宮内の儀礼よりも、殯庭でおこなわれた誄奉上儀のほうが可視的で、重要だったのではないかとの推定をおこなった。
「『九暦』からみた陽成天皇と藤原高子」, 佐藤 長門, 『日本歴史』, 851, 57, 67, 2019年04月01日, 吉川弘文館, 藤原師輔の日記である『九暦』を通して、陽成天皇の退位事情、さらには生母藤原高子の皇太后復位について検討したものである。陽成の退位については、藤原基経と妹高子(陽成の生母)の確執が背景にあり、その退位も高子の力をそぐためとする見解がある。しかし、藤原氏内部の兄妹喧嘩が天皇の地位を揺るがすほどの一大事件だったとは考えにくく、高子の権力を奪うために天皇廃位を画策したというのも転倒した議論である。また高子の皇太后復位も藤原忠平主導でスムーズにおこなわれており、廃后理由となった僧侶との密通も疑わしい点がある。よって高子の廃后は、皇太子敦仁親王(醍醐天皇)への譲位にあたり、その即位の正当性を強化するため、祖母である皇太夫人班子女王を皇太后へ昇位させる必要からなされたものだった可能性があることを指摘した。
『九暦』からみた陽成天皇と藤原高子, 佐藤 長門, 日本歴史, 851, 57, 67, 2019年04月, 吉川弘文館
「六世紀の王権ー専制王権の確立と合議制ー」, 佐藤 長門, 『古代文学と隣接諸学3 古代王権の史実と虚構』, 45, 74, 2019年02月15日, 竹林舎, 六世紀の倭王権について、世襲王権の成立と合議機関の創設に焦点を当てて論じたものである。五世紀段階の倭王権は独裁的・強権的であったが、その反面不安定な側面もあったため、六世紀にいたると王権の安定をはかって王統を一本化し、有力群臣を糾合した合議制を採用して、高次の専制王権の確立を目指した。
「日本古代における密教の受容過程」, 佐藤 長門, 『古代東アジアの仏教交流』, 199, 232, 2018年06月12日, 勉誠出版, 日本古代において、密教がどのように受容されたのか、最澄と空海それぞれの密教修学と帰国後の受容過程について論じたものである。最澄の密教授学は帰国直前に、未書写の天台法門を写す目的で訪れた越州で偶然出会った順暁から学んだもので、空海のそれも入唐後にたまたま訪問した青龍寺の恵果から授かったものであった。このように二人の授学は偶然に左右されたもので、帰国後の受容もなかなか思い通りには進まなかった。
自由な学風と飾らないお人柄 : 林先生の訃報に接して (追悼 林陸朗先生の人と学問), 佐藤 長門, 国史学 = The journal of Japanese history, 223, 254, 258, 2017年11月, 国史学会
書評 遠藤みどり『日本古代の女帝と譲位』, 佐藤 長門, 歴史学研究 = Journal of historical studies, 960, 45, 48, 2017年08月, 績文堂出版
「長屋王の変と光明立后」, 佐藤 長門, 『史聚』, 50, 224, 234, 2017年04月05日, 史聚会, 長屋王の変を藤原氏の謀略ととらえ、光明立后を実現するうえでの障害ととらえられたため引き起こされたとする教育が、いまだに多くの高等学校でおこなわれていることを問題視して起筆したものである。長屋王の変は、聖武皇子某王の死後に有力な王位継承者として浮上した膳夫王らと、その両親である長屋王・吉備内親王を排斥するために起きた王位継承事件で、光明立后は安積親王の立太子を阻止し、光明子が次の皇子を生むまでの時間を猶予するための措置であったが、結局聖武と光明子との間に皇子は生まれず、阿倍内親王(のちの孝謙女帝)が立太子することになった。
長屋王の変と光明立后 (第50号記念号), 佐藤 長門, 史聚, 50, 224, 234, 2017年04月, 史聚会 ; 1976-
「入唐僧円珍;日本天台宗寺門派之祖」, 佐藤 長門, 『浙江大学学報』人文社会科学版, 第45巻第3期, 112, 123, 2015年05月10日, 浙江大学, 日本天台宗第5代座主で、寺門派の祖である円珍の生涯をたどったものである。論文では円珍入唐の理由、入唐行歴、帰国後の動向について検討し、生前の円仁と円珍が対立していたわけではなく、晩年に到るまで、円珍は円仁を敬慕していたことなどを述べた。
系譜 : 追い求めた外戚の地位と女帝たちの選択 (特集 古代最強の豪族蘇我氏) -- (キーワードで読み解く蘇我氏), 佐藤 長門, 歴史読本, 59, 10, 110, 115, 2014年10月, Kadokawa
座談会 日本史の論点・争点 古代女帝研究の現在, 荒木 敏夫;佐藤 長門;仁藤 敦史, 日本歴史, 796, 2, 27, 2014年09月, 吉川弘文館
「キーワードで読み解く蘇我氏2 系譜ー追い求めた外戚の地位と女帝たちの選択」, 佐藤 長門, 『歴史読本』, 59, 10, 110, 115, 2014年08月23日, KADOKAWA
藤原広嗣 : 平城宮を震憾させた九州の反乱 (特集 敗者の古代史) -- (特集ワイド 敗者で読み解く古代史の謎 : 運命に抗い、戦いを挑んだ者たち), 佐藤 長門, 歴史読本, 59, 4, 78, 83, 2014年04月, Kadokawa
「藤原広嗣 平城宮を震撼させた九州の反乱」, 佐藤 長門, 『歴史読本』, 59, 4, 78, 83, 2014年02月24日, KADOKAWA
「天孫降臨神話の改作と八世紀前後の王位継承」, 佐藤 長門, 『國學院雑誌』, 114-1, 1, 16, 2013年01月15日, 國學院大學, いわゆる天孫降臨神話に関しては、それが高天原の最高神である女神アマテラスが孫のニニギに葦原中国への降臨を命じるという内容であることから、持統11年(697)に持統女帝が孫の文武天皇に譲位したという歴史事実が神話に投影したとする見解や、それを否定する見解が対立している。降臨神話の変遷過程については、ニニギが降臨する『日本書紀』本文や第6・第4の一書の成立のほうが、その父であるオシホミミがまず降臨を命じられる『日本書紀』第1・第2の一書の成立よりも早いとみなされてきたが、従来の投影説ではかかる研究成果を参照しないものが多かった。本稿では、ニニギが降臨したとするモチーフのほうが成立が古いという前提に立ちながらも、天神の子から孫へと降臨主体の交替が元明女帝の史局でなされたという推測を活かすため、その時期にニニギの属性を最高神の子から孫に変える修正がおこなわれ、アマテラスとニニギの間にオシホミミが挿入されたのではないかとの仮説を提示した。
天孫降臨神話の改作と八世紀前後の王位継承, 佐藤 長門, 國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University, 114, 1, 1, 16, 2013年01月, 國學院大學綜合企画部
「孝謙天皇 なぜ、日本史上初となる女性皇太子が誕生したのか?」, 佐藤 長門, 『歴史読本』, 57, 7, 114, 120, 2012年07月01日, 新人物往来社, 孝謙天皇の即位の経緯やその後の継承について論じたもの。阿倍内親王(のちの孝謙)は同母弟で皇太子であった某王の死後、母光明皇后に新たな皇子誕生の可能性がなくなった天平10年(738)に日本史上初の女性皇太子となり、天平感宝元年(749)に即位した。日本古代において、即位の可能性のある内親王には不婚が強要されたが、それは当時の王権中枢が草壁系王統による嫡系継承を指向しており、嫡系男子に代わって即位した女帝に子孫が存在していたら、王統の交替が発生するからであった。孝謙も不婚を維持したが、その後継者は父聖武太上天皇の死後、遺詔によって道祖王に決定したものの、のちに廃太子され、新たに群臣合議によって大炊王が立太子し、淳仁天皇として即位した。
「称徳天皇 譲位からわずか六年後の重祚と道鏡寵愛の理由とは?」, 佐藤 長門, 『歴史読本』, 57, 7, 122, 128, 2012年07月01日, 新人物往来社, 称徳天皇の即位の経緯とその後の継承について論じたもの。孝謙太上天皇が譲位した淳仁天皇(大炊王)は、あくまで聖武太上天皇の遺詔によって立太子した道祖王の代わりであり、淳仁天皇自身も「聖武天皇の皇太子」と自認していた。一方、孝謙太上天皇は草壁系王統を受け継ぐのは自分であり、淳仁は傍系の臣下にすぎないと認識していた。天平宝字6年(762)に両者の確執が生じると、孝謙は天皇との間の職務分掌と天皇廃絶の権能を宣言し、2年後の恵美押勝の乱後に淳仁を廃位させてみずから重祚した。重祚後の称徳は皇太子選定の独占的権利を主張し、宇佐八幡の神託を利用して道鏡を後継者に任命しようとしたが、和気清麻呂の抵抗にあって挫折した。称徳は最期まで皇太子を立てようとはしなかったが、その死後に藤原永手・同良継・同百川らが偽宣を作り、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)を立太子した。
特集ワイド 称徳天皇(しょうとくてんのう) (特集 古代女帝即位の謎), 佐藤 長門, 歴史読本, 57, 7, 122, 129, 2012年07月, 新人物往来社
特集ワイド 孝謙天皇(こうけんてんのう) (特集 古代女帝即位の謎), 佐藤 長門, 歴史読本, 57, 7, 114, 121, 2012年07月, 新人物往来社
「承和の変前夜の春宮坊-「藩邸の旧臣」をめぐって-」, 佐藤 長門, 『日本古代の王権と東アジア』, 88, 116, 2012年03月10日, 吉川弘文館, 9世紀前半の王統迭立期にみえる「藩邸の旧臣」について論じたものである。この時期の春宮大夫には、皇太子の父である太上天皇の側近が就任する場合と、現天皇の側近が就任する場合があり、前者は即位直後の天皇が先帝の意向に配慮しておこなったもので、後者は春宮坊が反天皇勢力の拠点にならぬよう「監視」する目的でなされた人事であった。春宮大夫は任官以前から参議に就任していたものや、大夫在任寺の皇太子と参議昇進時の天皇が一致しない例がほとんどで、春宮亮以下の議政官昇進が皇太子との関係ぬきには考えられないのとは対照的で、「藩邸の旧臣」には大夫を除いた春宮坊官人を想定すべきである。春宮亮以下の坊官のなかには、短期間で参議に昇進する少数の官人がいるが、彼らは先帝の側近の子という場合が多く、父も仕えた王統の後継者(皇太子)に短期間でも仕えることで、王統の「近臣」という政治的身位を獲得するために春宮坊官人になったと理解できる。
「斑鳩宮家 山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋」, 佐藤 長門, 『消えた名家・名門の謎』, 26, 39, 2012年02月14日, 新人物文庫, 『歴史読本』2011年10月号に掲載した同名の論文を、出版社の編集で文庫本に転載したもの。
「入唐僧の情報ネットワーク」, 『円仁と石刻の史料学-法王寺釈迦舎利蔵誌』, 260, 287, 2011年11月15日, 高志書院, 日本から渡海した入唐僧たちが、どのような情報にもとづいて修学先を決め、受学していたのかを検討したものである。7世紀(第1期)の入唐僧は、中国への散発的な派遣と仏教の総合的修学のためはじめから長期滞在を余儀なくされており、百済救援の役後に対唐関係が悪化すると、次善の策として新羅への渡航を選択するという複線的な修学形態をとっていた。8世紀(第2期)になっても、教学研究の未成熟などの理由から長期滞在をする入唐僧が多く、当時の仏教が複数の学派を兼修する性格だったため、特定の師僧や寺院にしぼって求法する必要はなく、入唐僧は上陸後に修学先を決めればよかったので、先代の情報や経験を参照する必要はあまりなかった。9世紀(第3期)になると、密教的要素を重視する傾向が出てきたことで、修学対象を具体的に限定する形態に変化していった。またこの時期には、先師の情報や経験を継承するようになり、経験者や在唐者などのネットワークを通して情報を共有する傾向があらわれていった。
「斑鳩宮家 山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋」, 佐藤 長門, 『歴史読本』, 56, 10, 64, 69, 2011年10月01日, 新人物往来社, 6世紀後半から7世紀中葉にかけての倭王権は、敏達天皇を祖とする「百済宮家」と、用明天皇を系譜的な祖とする「斑鳩宮家」というふたつの有力な王統(宮家)を軸に展開していた。推古天皇の時代には皇太子制も摂政制も存在しておらず、厩戸皇子(聖徳太子)は王権の職務を家政機関(皇子宮)で分掌していた「大兄」のひとりとして政策決定をリードしたにすぎず、厩戸のみが特別な地位に就いていたわけではなかった。推古の在位中に欽明の孫世代の「大兄」が死に絶えたことで、推古の後継候補は曾孫世代に移っており、百済宮家の田村皇子と斑鳩宮家の山背大兄王が有力な候補とされたが、田村の方が年長であったため舒明天皇として即位した。山背大兄はその後も有力候補であり続けたが、蘇我氏主導の王権内で次第に孤立を深めていき、皇極2年(643)11月に一家もろとも滅亡に追い込まれてしまった。
斑鳩宮家--山背大兄王の自害で消えた聖徳太子の血筋 ([歴史読本]2011年10月号特集 消えた名家・名門の謎) -- (特集ワイド 消えた名家・名門の謎), 佐藤 長門, 歴史読本, 56, 10, 64, 69, 2011年10月, 新人物往来社
「円珍の入唐動機に関する学説史的検討」, 佐藤 長門, 『椙山林継先生古希記念論集 日本基層文化論叢』, 357, 372, 2010年08月31日, 雄山閣, 日本天台宗第5代座主円珍が入唐した動機について、いままで提示されてきた学説の検討を通して考察を試みたものである。その結果、従来いわれてきた天台教団内の対立、円仁や円載からの影響、教学上の疑問解消のいずれも、円珍の主要な入唐動機とするには根拠が弱いことが明らかとなった。入唐後の円珍が、ひとり遮那業(密教)の求法のみならず、止観業(法華経)の研修をもおこなっていることを勘案すると、円珍は入唐前から当時の中国仏教界の状況を把握し、冷徹に「取捨選択」をしながら、遮那・止観双方の受学をめざしていたのではないかと思われる。
「日本古代譲位論―九世紀の事例を中心として―」, 佐藤 長門, 『国史学』, 200, 5, 51, 2010年04月30日, 国史学会, 8世紀以降の王位継承が生前譲位を原則にしているという通説的理解に疑問を呈し、主として9世紀の事例を対象として、譲位はそのときどきの政治的要請や現実的必要性にもとづいて選択された継承方法であったことを推察したものである。8世紀以降に生前譲位が多用されたのは、譲位が王位継承の原則になったからというより、むしろ譲位によらなければ皇太子への継承に支障がでたからであった。かかる事態の背景には、日本古代の君臣関係を規定する「相互依存的関係」が影響していたと考えられ、8世紀以降においても、王位継承上の課題が存在しないかぎり、天皇は終身在位を指向していたのである。
日本古代譲位論--九世紀の事例を中心として (特集 国史学会創立百周年記念シンポジウム 日本史における権力と儀礼), 佐藤 長門, 国史学, 200, 5, 51, 2010年04月, 国史学会
「用明・崇峻期の政変と蘇我氏―飛鳥寺建立前夜の倭王権―」, 佐藤 長門, 『古代東アジアの仏教と王権―王興寺から飛鳥寺へ―』, 371, 393, 2010年03月20日, 勉誠出版, 飛鳥寺が建立される前夜の6世紀後半におきた政変を分析し、この時期の仏教受容は百済からの受動的な“伝来”ではなく、倭王権が自発的に“導入”したものであったことを論じたもの。敏達没後の蘇我氏と物部氏との対立は、仏教受容をめぐる宗教対立というよりも、大王位をめぐる政治抗争(丁未の役)であったとみなすべきで、穴穂部を擁する物部氏は支配層のなかで孤立し、みずから滅んでいったとみるほうが正確である。またその後に即位した崇峻は、蘇我氏によって恣意的に殺害されたのではなく、当時の緊迫する国際情勢に的確に対応できないと判断されたため、支配層の総意によって暗殺されたと考えられる。結局、倭王権による仏教受容は、一氏族(蘇我氏)の宗教的要請からなされたものではなく、当時の北東アジアにおける政治的ダイナミズムに連動し、そのなかで生き残るために選択された、“文明化”の一階梯であったととらえるべきである。
大学院短期招聘研究員講演会紹介 李永植氏(大韓民国・仁済大学校歴史考古学科教授) 古代の倭と加耶地域, 佐藤 長門, 国学院大学大学院紀要. 文学研究科, 42, 157, 161, 2010年, 国学院大学大学院
円仁の足跡を訪ねて(4)江蘇省, 佐藤 長門, 栃木史学, 23, 84, 115, 2009年03月, 国学院大学栃木短期大学史学会
「円仁と遣唐使・留学生」, 佐藤 長門, 『円仁とその時代』, 191, 215, 2009年02月15日, 高志書院, 日本古代の遣唐使および留学生について、事実上、最後の派遣になった承和の遣唐使を中心に分析したものである。当初、600人を超える人員であった承和の遣唐使は、1回目の渡海で第3船が難破し、実際に入唐したものは460人前後であったと思われる。留学生のなかには、遣唐使とともに短期で帰国する請益生と長期滞在の留学生がおり、留学生の滞在期間は次の遣唐使がいつ派遣されるのかに規定されていた。また承和の留学生の場合、天台僧をのぞくと彼らの師僧は僧綱の構成員であり、師僧からの推薦が効力を発揮して留学生に選ばれた可能性がある。
「古墳時代の大王と地域首長の服属関係」, 佐藤 長門, 『國學院雑誌』, 109-11, 54, 68, 2008年11月01日, 國學院大學, いわゆる古墳時代における大王と地域首長の関係について、文献史学の立場から考察したものである。5世紀段階の倭王権は大王と地域首長との間にそれほどの格差がない比較的フラットな構造をしていたが、6世紀に入ると加耶地域からの鉄資源の安定的供給が途絶えたことで、在地における地域首長のヘゲモニーが減退し、各首長は大王に貢納・奉仕関係を中継する国造に退転した。このように、5世紀と6世紀とでは同じ古墳時代でくくることがはばかられるほどの違いが存在することが明らかとなった。
公開シンポジウム 『生産と権力、職掌と身分--社会階層形成の歴史学研究』総合討論の記録 (特集 生産と権力、職能と身分--社会階層形成の歴史学研究), 岡村 秀典;鍛代 敏雄;佐藤 長門, 國學院雜誌, 109, 11, 204, 229, 2008年11月, 國學院大學綜合企画部
古墳時代の大王と地域首長の服属関係 (特集 生産と権力、職能と身分--社会階層形成の歴史学研究), 佐藤 長門, 國學院雜誌, 109, 11, 54, 68, 2008年11月, 國學院大學綜合企画部
書評 荒木敏夫『日本古代王権の研究』, 佐藤 長門, 歴史学研究, 836, 40, 43, 2008年01月, 青木書店
古代 二(日本,2006年の歴史学界-回顧と展望-), 佐藤 長門, 史学雑誌, 116, 5, 647, 650, 2007年, 公益財団法人 史学会
古代 二(日本,2006年の歴史学界-回顧と展望-), 佐藤 長門, 史学雑誌, 116, 5, 647, 650, 2007年, 公益財団法人 史学会
「『日本霊異記』における天皇像」, 佐藤 長門, 『歴史評論』, 668, 66, 73, 2005年12月01日, 校倉書房, 日本最初の仏教説話集である『日本霊異記』において、天皇がどのように描かれているかを考察したものである。『霊異記』の天皇には、現世での応報(=現報)がまったく記されていない特徴がある。その要因としては、『霊異記』編者の景戒にとって、天皇は「観念」的存在で、善行にともなうヒーローとしては最適だったことが考えられ、同時代の僧侶で天皇の殺生を非難した道昌が、「実存」の天皇と対面できる立場にいたのとは異なっていた。
『日本霊異記』における天皇像 (特集/『日本霊異記』に古代社会をよむ) -- (『日本霊異記』の扉を開く), 佐藤 長門, 歴史評論, 668, 66, 73, 2005年12月, 校倉書房
「有銘刀剣の下賜・顕彰」, 佐藤 長門, 『文字と古代日本1 支配と文字』, 25, 42, 2004年12月01日, 吉川弘文館, 刀身や刀背に文字が象嵌されている古代の有銘刀剣の性格について分析したものである。従来有銘刀剣については、政治秩序形成のために上位者が下位者に下賜・分与した威信財ととらえる見解が有力であった。しかし銘文の内容を検討すると、下賜行為が想定される刀剣(「中平」銘大刀・「王賜」銘鉄剣)のほか、個人の業績を顕彰する目的で造られたと考えられる刀剣(「治天下」銘大刀・「辛亥年」銘鉄剣)も存在することが明らかとなった。
「史実としての古代女帝」, 佐藤 長門, 『東アジアの古代文化』, 121, 79, 93, 2004年11月01日, 大和書房, 日本古代の女帝について、その「中継ぎ」的性格を再確認した論考である。近年、女帝に関しては「性差」を前提とせず、単なる「中継ぎ」ではなかったとする見解が相次いでいる。しかし、八世紀の女帝が王統維持を目的として即位し、本来継承すべき皇嗣が即位可能な年齢に達すると譲位したことは明らかであり、皇位継承の文脈で語られる「中継ぎ」論と、女帝の天皇としての本質(資質)論とは区別して考えるべきことを主張した。
史実としての古代女帝 (特集 古代社会の諸問題), 佐藤 長門, 東アジアの古代文化, 121, 79, 93, 2004年, 大和書房
「倭王権の転成」, 佐藤 長門, 『日本の時代史2 倭国と東アジア』, 220, 246, 2002年07月01日, 吉川弘文館, 倭王権の展開過程を、5世紀と6世紀の違いに焦点をあてて論じたものである。5世紀段階の倭王権は、国内的には大王が各地域の首長から外交・軍事権の委任を受け、対外的にも中国王朝から列島の君主権を委任(承認)されるという政治体制であった。それが6世紀になると、国内外の情勢変化によって大王への求心力が高まり、地域首長が従属して、合議制にもとづく専制権力が成立するようになった。
「古代天皇制の構造とその展開」, 佐藤 長門, 『歴史学研究』, 755, 38, 46, 2001年10月01日, 歴史学研究会, 八世紀から一〇世紀前半までの古代天皇制の特質を、構造論的に分析しようとしたものである。草壁嫡系の成年天皇による継承を模索した八世紀の古代国家は、天皇の周囲に政治装置としての皇太子・皇后・太上天皇などを用意したが、九世紀には血統重視と機構的支配の成熟が重なって幼帝が出現した。ただこれ以降も支配層の結集核としての天皇の位置づけは変わらず、あくまで成年天皇の即位が原則であったことを様々な観点から論じた。
古代天皇制の構造とその展開 (2001年度歴史学研究会大会報告 民衆の生きた20世紀) -- (古代史部会 古代における国家と王権〔含 討論〕), 佐藤 長門, 歴史学研究, 755, 38, 46, 2001年10月, 青木書店
「七世紀における倭王権の展開過程-群臣の組織化を中心として-」, 佐藤 長門, 『國學院大學紀要』, 39, 57, 76, 2001年03月01日, 國學院大學, 七世紀における倭王権の展開過程を、群臣の組織化・官人化という観点から論じたものである。「王殺し」(=崇峻暗殺)にともなう体制崩壊の危機に直面した倭王権は、大王を頂点とする集権的秩序の構築を模索し、個々の臣僚層を官人として把握する冠位制を導入した。その結果、群臣の政治的地位は変動を余儀なくされ、従前の階層性がくずれて新たな支配階層が中葉以降に形成されていったことを明らかにした。
「七世紀における合議制の機能と構造」, 佐藤 長門, 『国史学』, 173, 55, 75, 2001年03月01日, 国史学会, 七世紀における倭王権の合議制について検証したものである。下位組織(集団)との統属関係に基づいた政治機構だった合議制は、七世紀にはいると関係解消の方向に進み、天武期にいたって最終的に両者の関係は否定された。これは大王(天皇)を中心とする集権的支配を構築しようとしてきた当時の政治動向とも合致し、群臣による王権職務分掌体制を解体するために避けては通れない道程だったといえる。
七世紀における合議制の機能と構造 (特集 七世紀の日本と韓国の古代国家), 佐藤 長門, 国史学, 173, 55, 75, 2001年03月, 学術雑誌目次速報データベース由来
七世紀における倭王権の展開過程--群臣の組織化を中心として, 佐藤 長門, 国学院大学紀要, 39, 57, 76, 2001年, 国学院大学
倉本一宏「日本古代国家成立期の政権構造」, 佐藤 長門, 歴史学研究, 719, 44, 47, 1999年01月, 青木書店
虎尾達哉著, 『日本古代の参議制』, 吉川弘文館, 一九九八・三刊, A5, 三七〇頁, 八〇〇〇円, 佐藤 長門, 史学雑誌, 108, 2, 225, 235, 1999年, 公益財団法人 史学会
「倭王権の列島支配」, 佐藤 長門, 『古代史の論点4-権力と国家と戦争』, 167, 194, 1998年03月01日, 小学館, マックス=ヴェーバーの「支配の諸類型」を指標として、日本古代国家の形成過程を論じたものである。大王の人格的資質に支配の基礎をおく統治形態をとっていた倭王権は、支配の永続化・安定化を求めて6世紀初頭に合議制の導入に踏み切った。しかし7世紀にはいると列島内外の情勢は一段と厳しさを増し、為政者たちは「天皇」号を採用することで君主のカリスマを高め、国史編纂事業を行って伝統的な列島支配を強調、さらに律令制を導入することによって法治主義に基づく合法的支配を開始したのである。
「加耶地域の権力構造」, 佐藤 長門, 『東アジアの古代文化』, 90, 64, 73, 1997年02月01日, 大和書房, 古代朝鮮において、高句麗・百済・新羅とともに統一国家形成を志向しながら、ついに実現することがなかった加耶地域の権力構造を分析したものである。加耶地域の合議は、いわゆる「任那復興会議」を最上位に重層的な構造をしており、各国旱岐(=首長)の権力が比較的均質で、百済や「倭臣」集団の代表も参加する柔軟な構成をとっていた、などの特徴がみられる。かかる構造的特質は、外敵の侵略などの緊急事態に対して早急かつ有効な対応をとり得ず、562年の滅亡をもたらすこととなった。
加耶地域の権力構造--合議制をキ-ワ-ドとして (特集 考古学の最新成果からみた加耶), 佐藤 長門, 東アジアの古代文化, 90, 64, 73, 1997年02月, 大和書房
「倭王権における合議制の史的展開」, 佐藤 長門, 『日本古代の国家と祭儀』, 4, 33, 1996年07月01日, 雄山閣出版, 倭王権における合議制の展開課程、特に群臣層の変遷と合議機関の構成について論じたものである。倭王権の合議の特徴としては、合議に参加できた群臣の範囲が限定されていること、その地位が流動的かつ一過性のものであること、時には大王側近者や渡来系氏族なども加わる柔軟な構成をしていたこと、などがあげられる。これらは、群臣の地位が大王との人格的関係に基づいた他律的職位であったことに起因しており、合議制の存在から該時期の政権を「貴族制」的であるとみなす考えを明確に否定する。
古代 (1995年の歴史学界--回顧と展望) -- (日本), 鈴木 靖民;佐藤 長門;田中 史生, 史学雑誌, 105, 5, 647, 688, 1996年05月, 山川出版社
日本 : 古代 二 (一九九五年の歴史学界 : 回顧と展望), 佐藤 長門, 史学雑誌, 105, 5, 41, 46, 1996年, 公益財団法人 史学会
日本 : 古代 二 (一九九五年の歴史学界 : 回顧と展望), 佐藤 長門, 史学雑誌, 105, 5, 41, 46, 1996年, 公益財団法人 史学会
「倭王権における合議制の機能と構造」, 佐藤 長門, 『歴史学研究』, 661, 1, 17, 1994年08月01日, 歴史学研究会, 従来,「貴族制」的要素の例証とされてきた倭王権段階の合議制を論じたものである。考察の結果,合議を構成する有力氏族の諸権限は王権と無関係に存在するものではなく,合議に対する招集権や発議権,さらに政策決定の裁量権についても大王の専権事項であったことが明らかとなった。つまり群臣は未熟な支配階級として自らの「共同利害」を貫徹するため大王の下に結集せざるを得ず,その機関が該時期の合議だったのである。
倭王権における合議制の機能と構造--日本古代群臣論批判序説, 佐藤 長門, 歴史学研究, 661, p1, 17,64, 1994年08月, 青木書店
「入唐僧円行に関する基礎的考察」, 佐藤 長門, 『国史学』, 153, 53, 95, 1994年05月01日, 国史学会, いわゆる入唐八家に数えられる平安前期の密教僧,円行について論じたものである。円行は承和の遣唐使に同行した真言請益僧であるが,その入唐は渡海中途で遭難した真済・真然がその後の乗船を忌避されたための代理であった。帰国後の活躍は芳しいものではないが,それは上記の理由が影響していたのかもしれない。しかし彼が唐に持参した奉書や信物目録が残っていることは,他の入唐僧研究にとっても参考とすべき事例である。
入唐僧円行に関する基礎的考察, 佐藤 長門, 国史学, 153, p53, 95, 1994年05月, 国史学会
薛仲業と淡海三船の交歓--統一期新羅と日本との文化的交渉の一断面, 李 基東;佐藤 長門, 国史学, 151, p1, 15, 1993年12月, 国史学会
「称徳・道鏡政権下の写経体制」, 佐藤 長門, 『正倉院文書研究』, 1, 136, 167, 1993年11月01日, 正倉院文書研究会, 称徳・道鏡政権下の写経体制について論じたものである。この時期には称徳天皇の私的写経所である奉写御執経所を中心に写経事業が行われるが,大きく東大寺写経所と並行して行われた第1期と御執経所のみで行われた第2期に分類できる。称徳・道鏡は藤原仲麻呂との対抗上,仲麻呂の権力維持の道具と化していた東大寺写経所に干渉し(第1期),仲麻呂が敗死すると利用価値が低下したため御執経所のみで事業を展開した(第2期)。
「阿倍氏と王権儀礼」, 佐藤 長門, 『日本歴史』, 540, 22, 38, 1993年05月01日, 日本歴史学会, 古代の雄族である阿倍氏の分析を通して,倭王権段階の群臣の性格を論じたものである。阿倍氏の王権儀礼への関与は中小氏族を統率することによって行われる。それは阿倍氏が実際に中小伴造氏族を統轄していた時代があったことに基づく。阿倍氏は彼らを王権に奉仕させることで自らの奉仕をも実体化していたが,かかる王権と氏族の関係は阿倍氏に限ったことではなく,実は他の古代氏族にも共通したものであったことを論述した。
阿倍氏と王権儀礼--古代群臣に関する一考察, 佐藤 長門, 日本歴史, 540, p22, 38, 1993年05月, 吉川弘文館
「太元帥法の請来とその展開」, 佐藤 長門, 『史学研究集録』, 16, 1, 14, 1991年03月01日, 國學院大學大学院日本史学専攻大学院会, 鎮護国家・怨敵調伏の大法として重視される東密(=真言宗)系の護国修法,太元帥法の日本への請来過程とその後の展開を論じたものである。従来,太元帥法に関しては,それを請来してきた常暁の時代からすでに特殊な護国修法として国家に珍重されたと考えられてきた。しかしその展開過程を詳細に検討してみると,常暁よりも2代目の寵寿の活動に注目すべきで,日本の対外意識が変化する時期とも一致することを論証した。