『文心雕龍』に見える賦論の展開―「詮賦篇」を中心に―, 鈴木崇義, 國學院中國學會報, 69, 39, 60, 2023年12月22日, 國學院大學中國學會, 劉勰の著した『文心雕龍』は、中国文学史上初の総合的な文学理論の書である。構成は上下二篇に大きく分かれそれぞれ二十五篇の合計五十篇となるが、その一つに「詮賦篇」がある。本発表は、この『文心雕龍』の一篇を担う「詮賦」篇に注目し、総合的な文学理論の著作である『文心雕龍』において、辞賦がどのように議論されたのか、また、漢魏六朝の辞賦文学の展開がどのように考えられていたのかについて、検討したものである。
「詮賦篇」については、『漢書』藝文志「詩賦略」を端緒とし、摯虞『文章流別志論』に連なる一連の議論をまとめた、漢魏六朝の賦論の集大成をなしていることを確認した。
その上で、この他の創作論である、「麗辞篇」や「比興篇」、「「夸飾篇」などに見える辞賦作品の考察について検討を加えたところ、『文心雕龍』は表現上の特徴や時代を追って作品同士を比較することによる、文学史的な視点を通じた検討がなされていることが明らかになった。
成公綏の「天地賦」について―魏晋における辞賦文学の側面から―, 鈴木崇義, 大上正美先生傘寿記念三国志論集, 81, 103, 2023年09月03日, 三国志学会, 魏晋に生きた成公綏の「天地賦」に付された序文には、賦の制作理論とも言うべき内容が盛り込まれている。この序文の内容は、『西京雑記』に見られる司馬相如の「与盛覧書」との近似が指摘されていた。本論は、この問題を端緒に「天地賦」全体の内容について検討を加え、当時の風潮であった玄学の流行との関係性について指摘したものである。
司馬相如「長門賦」小考, 鈴木崇義, 國學院中國學會報, 67, 49, 66, 2021年12月25日, 國學院大學中國學會, 司馬相如の「長門賦」は、その作品の制作背景となる逸話と共に語り継がれてきた。本論は、「長門賦」の序文に附せられた逸話の検証と、「長門賦」に対する後世の評価を軸に作品を捉え直し、文学史的位置づけを明らかにした。その結果、司馬相如という一個の文人に関する伝記が様々な逸話とともに語り継がれ、その一つの逸話が「長門賦」の序文として成立したのであろうという結論を得た。
曹植の所謂「辞賦小道」をめぐって, 鈴木崇義, 國學院中國學會報, 65, 65, 51, 71, 2019年12月01日, 國學院大學中國學會, 本論は、曹植の「与楊徳祖書」に述べられた「辞賦小道」という発言を軸として、当時の文人達の辞賦に対する意識を明らかにしようと試みたものである。
前漢から後漢にかけて、「賦」という文体は揚雄や後漢の班固の議論によると、『詩経』の詩人の精神を受け継ぐべきものでなければならない、と考えられていたようである。しかし、後漢末になると、やがてそれは形骸化してゆくこととなった。
以上の流れを確認した上で、曹植の「与楊徳祖書」および議論を交わした楊修や應瑒の書簡からから、曹植は政治・社会に貢献するということ、辞賦を作ることの価値を切り分けようとしていたことを明らかにした。
学修支援センターにおける障がい学生の学修支援体制の振り返り―國學院大學の学修支援の始まりと障害者権利条約の視点から―, 佐藤紀子・鈴木崇義, 『國學院大學教育開発推進機構紀要』第10号, 10, 13, 26, 2019年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構, 佐藤紀子, 国連の障害者権利条約の採択にはじまり、日本国内の大学においても合理的配慮の提供について多様な在り方が模索されている。本稿においては、國學院大學の障がい学生の学修支援に焦点をあて、その実施機関である学修支援センターの開設当初と差別解消法の施行後の動向とを中心に、同センターにおける障がい学生への学修支援体制を振り返る。この目的のために、ふたつの軸を設定した。ひとつは大学教育に学生の相談・支援体制が組み込まれるきっかけとなった、教員中心の大学から学生中心の大学への転換である。もうひとつは、一連の障がい者制度改革による障がい者の権利主体への転換である。これらふたつを軸に学修支援センターの障がい学生の学修支援体制を振り返ると、正課外の学生支援を大学教育の一部とみなす大学教育におけるパラダイムシフトと、障害者権利条約が求める社会モデルへのパラダイムシフトとに対応すべく学修支援センターの体制がその都度更新されてきたことがわかり、今後も、課題を見据えつつ、学生の学びを支えるために柔軟な対応が求められることがわかった。
張恵言の『七十家賦鈔』について, 鈴木崇義, 國學院雜誌, 117-11, 272, 290, 2016年11月15日, 國學院大學, 『七十家賦鈔』は、清代の学者であり文人(賦作家)でもあった張恵言によって編纂された賦集である。本書は、屈原(楚辞)から庾信までの70名の作家の作品を時代順に配列し、批評と注釈を附けているという特徴を有しており、賦というジャンルの隆盛した時代の画期を指摘していると考えられる。 本論は、いかなる意図をもって楚辞および漢魏六朝の作品を集めたのかを知るべく、その序文を読み解いた。その結果、張恵言が漢魏六朝という期間において、賦がいかに変化していったかをつぶさに見つめ、この時代にて賦の歴史は結末を迎えたと考えていたことを明らかにした。
國學院大學における聴覚障害学生の学修支援について―ノートテイク支援体制の構築とノートテイカー養成の視点から―, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 第7号, 52, 63, 2016年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構, 國學院大學では、障害がある学生の学修支援として、主に聴覚障害学生に対してノートテイクによる情報保障の学修支援を実施した実績がある。これは、教育開発推進機構発足以前にも実施されていたが、聴覚障害のある学生が在籍していなかった、あるいは支援の申請がなされなかったことにより、支援の行われなかった空白の時期があった。ところが、平成24年度になって聴覚障害のある学生が入学し支援を申請したことから、改めてノートテイクによる情報保障の学修支援を実施することになった。当初はPEPNet-JAPANの教材を使用しながら手探りでノートテイカーの養成をしていたが、やがて外部講師を招き専門性の高い研修会を実施するに至った。同時に、学生同士でもノートテイクの練習会を自発的に開催する等、学生間における相互研修の様子も見られた。本稿は、これまでの障害学生の学修支援に関する調査についてまとめるとともに、ノートテイク支援体制の構築及びノートテイカーの養成について本学の実践を示すものである。
呼び出し対応における学生との関わりから見えてきたもの及び学生対応の今後の展望, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 第5号, 89, 97, 2014年03月10日, 國學院大學教育開発推進機構, 東海林孝一, 学修支援センターでは、発足当初より出席状況の悪い学生をメールによって呼び出し面談を実施してきた。しかし、一定の割合の学生しか来談せず、呼び出しの対象となった学生の実態をうかがい知ることが難しかった。一方で、来談した学生に対する個別対応の重要性については、これまでの面談実績より明らかになっていた。そこで、平成25年度後期にはきわめて出席率の悪い学生に絞り込んで電話連絡による呼び出しをしたところ、来談率が大幅に上昇し、呼び出し対象となった学生の実情を知ることができた。以上の経緯をふまえ、学生の個別対応の重要性を改めて主張し、今後の学修支援センターの学生対応の展望および学修支援センター相談室専従教職員に望まれることについて指摘した。
張衡「二京賦」小考, 鈴木崇義, 國學院中國學會報, 58, 51, 71, 2013年03月23日, 國學院大學中國學會, 張衡の「二京賦」は、班固の「両都賦」の模擬的作品であるとされたきた。しかし、後漢になると都を詠じた賦が多く作られており、必ずしも班固の作品を模擬したとはいえないと考えられる。そこで、「二京賦」の内容を詳細に見ていくと、形は班固を模擬しつつも、作品の趣旨には張衡の社会に対する批判が標榜されていることを明らかにしたものである。
併せて、『歴代賦彙』の分類による漢賦の作者・主題別分類表を附した。
相談事例からみる学修支援の現状と課題についての覚書, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 4, 73, 82, 2013年03月10日, 國學院大學教育開発推進機構, 本稿は、國學院大學教育開発推進機構学修支援センター相談室における相談事例から、卒業に結びついたケース、結びつかなかったケースについての検証を試みたものである。その結果、学生が学修に見変えなくなる原因には個別の事情によるものが大きいことを明らかにし、学修支援には学生が様々な場面で躓く危険性があること、また、初年次教育を充実させると共に、2年次以降も学修支援の網を張る必要があることを指摘した。
國學院大學における学修支援体制構築に向けて, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要第2号, 2, 49, 62, 2011年03月10日, 國學院大學教育開発推進機構, 現在、日本の各大学では大学生の学びを支援する学修支援センターが設置され、また設置されつつある。本稿は、大学における学修支援の歴史と内容について概観し、他大学で実施されている学修支援の調査報告に基づきいかなる学修支援がなされるべきなのかを明らかにし、國學院大學における学修支援に何が求められているのかについての考察を試みた。加えて、本学の学修支援センター相談室において行った学生と面談によって明らかになった本学の学生が抱える悩みについても報告を行い、学修相談から見えてきた課題について述べたものである。
「邊讓「章華賦」小考」, 鈴木崇義, 國學院中國學會報, 56, 31, 43, 2010年12月25日, 國學院大學中國學會, 後漢末期に生きた文人邊讓は、諷喩をテーマに「章華賦」を作った。しかし、賦は「漢書藝文志」において、時代を経るにつれて内容が淫美にはしったことが指摘され、さらに揚雄は、政治的社会的に全く無力なものであると明言している。本論は、このような文学史上の流れを経て、邊讓があえて諷喩をテーマに賦を作った理由について論じた。その結果、邊讓は章華臺の歴史的故事を述べることにより、作品の中に邊讓の時局に対する無力感と、それに対する心の中の葛藤を吐露したのだということを明らかにした。
「曹植「洛神賦」小考」, 鈴木崇義, 『中国古典研究』, 第53号, 49, 67, 2009年03月01日, 中国古典研究会, 三国時代の文人曹植に「洛神賦」という作品がある。これは所謂〈人神交婚譚〉を主題とするものであり、人間の男が神なる女に求愛するも拒絶され、悲恋に終わるという型を持つ。宋玉の「高唐賦」、「神女賦」が淵源として考えられる、神女を主題にした作品は、現存する漢賦には見られず、建安時代になって王粲らが「神女賦」を作り、賦の主題として取り上げるのを待たなければならない。本論は、いかなる理由で建安時代に「神女」が賦の主題となり得たのか、建安時代の「神女賦」との差異を検証し、あわせて『楚辭』との関係性にも触れ、建安という時代が「神女」の主題を復活させたこと、洛神への求愛は曹植の不遇感を、神女への求愛という形で表白したものであることを論じた。
「班彪「北征賦」小考」, 鈴木崇義, 『國學院大學大学院紀要―文学研究科―』, 39, 281, 301, 2008年03月10日, 國學院大學大学院, 前漢末に至って賦は、司馬相如ら「言語侍従の臣」の手から、揚雄ら学問を修めた知識人へと、その担い手が遷っていった。本論は、これを踏まえて班彪の「北征賦」の内容を検討し、これが旅の道程において歴史と現在を重ね合わせ、厳しい現実批判をした作品であることを明らかにした。また、班昭の「東征賦」も検討を加え、「行旅」の賦のテーマが、作者の境遇と密接に関わることを論じた。そして、後世への展開を示すことにより、班彪の「北征賦」が「行旅」という文学様式を定着させたこと、また従来の文学史で指摘されてきた、賦の抒情化を推し進めた作品であることを示したものである。
「詠鳥賦考―禰衡「鸚鵡賦」を中心に―」, 鈴木崇義, 『國學院大學大学院紀要―文学研究科―』, 38, 197, 218, 2007年03月10日, 國學院大學大学院, 中国文学の中で、初めて鳥を明確にテーマとした作品は賈誼の「鵩鳥賦」である。しかし、内容からは作品における鳥の担う役割はさほど大きいものとは思われない。一方、後漢末の禰衡「鸚鵡賦」は、これまでの鳥を詠じた作品にあって、とりわけその形態描写が詳細であり、何より、鳥に自己の不遇を仮託した賦として精彩をはなっている。「鸚鵡賦」以降、鳥をテーマにした賦作品が多く作られるようになるが、単なる詠物に留まらない、鳥の飛翔能力に想起された内容を持った者が登場するようになっていく。本論は、『古賦辨體』の指摘を手がかりに、張華の「鷦鷯賦」と鮑照の「野鵞賦」を併せて検討し、「鸚鵡賦」の文学史上の位置づけを明らかにし、後世への展開を示したものである。
「張衡「帰田賦」小考」, 鈴木崇義, 『國學院中國學會報』, 第51輯, 15, 30, 2005年12月01日, 國學院大學中國學會, 賦は、その表現様式である「敷陳性」によって、作品の規模が長大になっていく必然性を備えた形式である。漢賦の代表格とされる作品は皆どれも長大である。しかし、後漢中期になると、これまでのような長大な賦ではなく、比較的小規模の賦が作られるようになった。その一つが張衡の「帰田賦」である。本論は、「帰田賦」の「田に帰る」というテーマに着目し、「田園」と「狩猟」の二つの「田」が、張衡の作品に混在していると考え、賦の歴史的推移を考証するために漢賦の主要な作品を「田猟賦」と「都邑賦」、「賢人失志の賦」に分けて考察し、張衡の事蹟を踏まえ、後漢における処世観の現れを検討した。加えて陶淵明への展開の見取り図も示し、隠遁文学としての「帰田賦」を位置づけた。
馮子振筆「与無隠元晦詩」解説, 鈴木崇義, 國華, 第1540号 第129編, 第7冊, 2024年02月20日, 朝日新聞出版, この作品は、元にわたって中峰明本に師事した無隠元晦に対して、両者に交流のあった馮子振が無隠元晦に送った三首の詩である。
三首全体の内容は、無隠元晦が留学し(一首目)、中峯明本に師事して嗣法し(二首目)、日本に帰るまで(三首目)が述べられている。とりわけ、無隠元晦が嗣法したことについては、宋の黄庭堅が晦堂祖心に師事していたとき、金木犀の香りを嗅いで悟りを開いた話柄を典故としている。これは、中峯明本が与えた「無隠」の法号の由来ともなっている。黄庭堅が悟りを開く発端は、晦堂祖心が『論語』に見える「吾れ隠すこと無きのみ」について問うたところである。この「隠」の語を中心に、中峯明本と無隠元晦の師弟関係が、あの晦堂祖心と黄庭堅にも比せられるとすることで、無隠元晦をのすぐれた様を述べている。
馮子振は在家の文人であるが、中峯明本をはじめとした多くの僧侶と交流があった。本作品は日本からの留学僧との交流の一端をしめすものとして位置づけられるであろう。
座談会「漢文教育の現状と展望」, 鈴木崇義, 國學院雜誌, 125, 1, 47, 74, 2024年01月15日, 國學院大學, 令和4年度より新学習指導要領が実施されたのをきっかけとし、漢文教育の現状における諸問題と展望についての議論をまとめたものである。議論の参加者は、大学での漢文教育(中国古典教育)や教員養成にかかわる大学教員および高等学校国語科教員である。
國學院の漢文教育概観―草創期から大学昇格まで―, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 1, 67, 77, 2010年03月10日, 國學院大學教育開発推進機構, 國學院における漢文教育の歴史をうかがうため、草創期から大学令による大学昇格までを区切りとして学科表と講師陣を俯瞰した研究ノートである。調査の結果、草創期においては経書を中心としたないようであったが、やがて講師陣の充実に伴い、経書のみならず老荘思想や文学史にも触れ、『史記』や諸子百家等の本格的な漢籍を扱うようになった。大学に昇格した頃になると、漢詩文の授業も増え、現在の文学部中国文学科のカリキュラムの基礎となっていたことが明らかになった。
令和2年度学修支援センター活動報告―オンライン環境における学修支援の模索―, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 13, 138, 146, 2022年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構, 令和2年度における学修支援センターの活動を中心に、これまでの学修支援センターの活動を振り返り、まとめたものである。コロナ禍におけるオンライン環境における学生相談のあり方の模索や、学修関連の情報公開の重要性について述べるとともに、なかでも、障がい学生支援に関しては、オンラインという環境はむしろ利点が多いとうことを指摘した。そして、これらの活動を受け、今後、学修支援センターはいかなる役割を果たすべきかについて述べた。
新刊紹介:山崎藍『中国古典文学に描かれた厠・井戸・簪―民俗学的視点に基づく考察―』, 鈴木崇義, 『青山学報』, 276号, 30, 30, 2021年06月01日, 青山学院本部広報部, 青山学院大学の広報誌である『青山学報』に掲載される、仙人教員の著書紹介として執筆したものである。
シリーズ「國學院大學の教育は、今(3)ハイブリッド授業体験記」, 鈴木崇義, 『教育開発ニュース』, 23, 10ページ, 10ページ, 2021年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構, 令和2年度に実施されたオンライン授業態勢の下、後期後半より部分出来に実施されたハイブリッド授業に関する状況、工夫、所感についてまとめた。
スタディツアーを通じた学生の成長の可能性―東北再生「私大ネット36」を例として―, 鈴木崇義, 國學院大學教育開発推進機構紀要, 8, 117, 129, 2017年03月01日, 國學院大學教育開発推進機構, 本稿は、筆者が実際に引率に携わった東日本大震災復興支援プロジェクトである東北再生「私大ネット36」の活動を通じて得た知見を、学生の成長という視点から述べたものである。筆者は、平成27年9月に南三陸町に学生を引率し、そこで学生が4日間のActでそれぞれに考え、様々な意見を交換して自分たちなりの答えを出そうとする姿を目の当たりにした。本稿は実際のActの事例を紹介し、そこから何を学生が学び得たのか、また、どのような成長の可能性があるのかを報告したものである。
『楚辭補注』譯注稿(十六), 『國學院中國學會報』, 第49輯, 國學院大學中國學會, 2003年12月01日, 80, 123, 本稿は、洪興祖『楚辭補注』の九歌「湘君」を訳注したものである。この洪興祖の「補注」は、『楚辭』の主要な注釈とされながらも、これまで訳注がなかった。底本には中国古典文学基本草書『楚辭補注』(中華書局)を使用し、解釈は藤野岩友博士『楚辭』(集英社「漢詩大系」)を拠り所とした。また訳注にあたっては、適宜研究や注釈を参照し、洪興祖が挙げた引用資料の出典を明らかにし、可能な限り諸本との校合に務めた。
『楚辭補注』譯注稿(十七), 『國學院中國學會報』, 第50輯, 國學院大學中國學會, 2004年12月01日, 87, 107, 本稿は、洪興祖『楚辭補注』の九歌「湘夫人」の第一句から第二十句を訳注したものである。この洪興祖の「補注」は、『楚辭』の主要な注釈とされながらも、これまで訳注がなかった。底本には中国古典文学基本草書『楚辭補注』(中華書局)を使用し、解釈は藤野岩友博士『楚辭』(集英社「漢詩大系」)を拠り所とした。また訳注にあたっては、適宜研究や注釈を参照し、洪興祖が挙げた引用資料の出典を明らかにし、可能な限り諸本との校合に務めた。
『楚辭補注』譯注稿(十八), 『國學院中國學會報』, 第51輯, 國學院大學中國學會, 2005年12月01日, 91, 112, 本稿は、洪興祖『楚辭補注』の九歌「湘夫人」の第二十句から第四十句を訳注したものである。この洪興祖の「補注」は、『楚辭』の主要な注釈とされながらも、これまで訳注がなかった。底本には中国古典文学基本草書『楚辭補注』(中華書局)を使用し、解釈は藤野岩友博士『楚辭』(集英社「漢詩大系」)を拠り所とした。また訳注にあたっては、適宜研究や注釈を参照し、洪興祖が挙げた引用資料の出典を明らかにし、可能な限り諸本との校合に務めた。
『楚辭補注』譯注稿(十九), 『國學院中國學會報』, 第52輯, 國學院大學中國學會, 2006年12月01日, 75, 93, 本稿は、洪興祖『楚辭補注』の九歌「大司命」の第一句から第十六句を訳注したものである。この洪興祖の「補注」は、『楚辭』の主要な注釈とされながらも、これまで訳注がなかった。底本には中国古典文学基本草書『楚辭補注』(中華書局)を使用し、解釈は藤野岩友博士『楚辭』(集英社「漢詩大系」)を拠り所とした。また訳注にあたっては、適宜研究や注釈を参照し、洪興祖が挙げた引用資料の出典を明らかにし、可能な限り諸本との校合に務めた。
『楚辭補注』譯注稿(二十), 『國學院中國學會報』, 第53輯, 國學院大學中國學會, 2007年12月01日, 69, 81, 本稿は、洪興祖『楚辭補注』の九歌「大司命」の第十七句から第二十八句を訳注したものである。この洪興祖の「補注」は、『楚辭』の主要な注釈とされながらも、これまで訳注がなかった。底本には中国古典文学基本草書『楚辭補注』(中華書局)を使用し、解釈は藤野岩友博士『楚辭』(集英社「漢詩大系」)を拠り所とした。また訳注にあたっては、適宜研究や注釈を参照し、洪興祖が挙げた引用資料の出典を明らかにし、可能な限り諸本との校合に務めた。
学修支援センター相談室における学生相談の現状と課題―いかに学生と向き合うか―, 『教育開発ニュース』, 3, 國學院大學教育開発推進機構, 2011年01月12日, 4, 7, 学修支援センター相談室の開室から1年の歩みを振り返り、相談から得た学生の状況を報告し、時間割の組み方、学年ごとの取得単位数の目安について示した。加えて、学生との個別の相談についても状況を概観し、今後の学修支援センター相談室のあるべき姿についての見解を述べた。