「八百万の神の祓の効用と、その受容―平安時代中期までの百官大祓を中心に―」, 加瀬直弥, 『國學院大學研究開発推進機構紀要』, 16号, p1, p23, 2024年03月31日, 國學院大學研究開発推進機構, 古代の祓として、朝廷の百官大祓は良く知られている。この祓は、八百万の神によって罪が贖われるという考え方に基づくが、後の時代にはそれよりも効用があるものと理解されていた。この論文では、その理解をいつ、だれが有していたかについて考察し、百官大祓成立のころから、実践する側も受け手も共有していたことを指摘した。また、八百万の神として中世以降広まったのが中臣祓だが、この祓の成立に、9世紀の式の施行による、百官大祓の大祓詞の公表が大きな影響を与えたことを論じた。
「着装装束から見る中世神社神事の特色」, 加瀬直弥, 『神道宗教』, 263号, p1, p23, 2021年07月25日, 神道宗教学会, 南北朝期までに成立したと見られる各地の神社の年中行事書から、神職装束の着装状況を確かめ、束帯が用いられる神事の共通した特色を指摘した。具体的な指摘点は、朝廷の祭使差遣の神事であっても、束帯着装の局面は一部の祭儀に限られていたこと、律令祭祀は朝廷との直接的な接点がなくとも束帯着装の局面があったこと、節日神事は元旦を除き、束帯着装の事例が少なかったこと、等である。
「文徳・清和朝の神階奉授と由緒に関する試論―『日本書紀』との対応関係を念頭に―」, 加瀬直弥, 『國學院雑誌』, 121巻, 11号, p379, p393, 2020年11月15日, 國學院大學, 文徳・清和朝(850~877)における神社由緒と『日本書紀』との連関度を概観。朝廷の神事に関わる神社の由緒が、『日本書紀』の伝承と対応すること等を確認した。
「院政期大嘗会供膳の「秘説」について」, 加瀬直弥, 『國學院雑誌』, 120巻, 11号, p152, p162, 2019年11月15日, 國學院大學, 大嘗会の供膳に秘儀ある点を示唆した『後鳥羽院御記』の内容を検討した。院による秘説主張の背景には、順徳天皇の権威付けという側面がある点を指摘した。
「平安時代前期における神社創建の由緒」, 加瀬直弥, 『藝林』, 67巻, 2号, p39, p55, 2018年10月10日, 藝林会, 平安時代前期、朝廷に周知された神社創建の由緒にはひとつの共通点があった。それは、祭神が既知か、あるいは既知の神祇と系譜上のつながりを持っているという点である。半面、従来の一部の由緒で見られたような、未知の神祇を検知するという伝承はない。既知の神祇を軸とした由緒が多く生じた主たる理由は、弘仁3年(812)に下された託宣吟味の勅にあると考えられる。これにより、国内神祇の託宣が国司の検分を経ることになり、結果、国司が諸国国内の政治的動向と連動させつつ、託宣を取捨選択できるようになった。そして、連携を保つという趣旨の元で、実例の通り朝廷中央にも理解できるような神祇を登場させる方向性も定まったと見られる。こうした経緯を俯瞰すると、平安時代前期は、霊力ある存在を広く神祇として捉えない時代と見ることもできる。だが一方で、この時代は後代隆盛する人霊信仰・防疫信仰の萌芽期といっても過言ではない。しかし、あくまで萌芽期であって、未だ神祇信仰という枠組みには入っていなかった。結局のところ、未知の神祇を是とする時代に挟まれた時代だと、平安時代前期は評価できる。
「古代朝廷祭祀に携わる神社の人々」, 加瀬直弥, 『霊と交流する人々』, 上巻, p227, p247, 2017年03月31日, リトン, 神社で朝廷祭祀を執行する神職の役割を、その祝詞の『延喜式』への所収状況や文体から検討を加えた。まず、鎮花・三枝・相嘗の諸祭の祝詞が『延喜式』に載録されていない理由が、執行が神職に委託されていたためと指摘した。また、祝詞のある祭祀の執行についても、在地の神職の裁量が大きかった点を論じつつ、執行組織の差異が祝詞の文体の違いと対応している点を指摘した。
「神階から見た平安時代前期の稲荷社」, 加瀬直弥, 『朱』, 59号, p176, p186, 2016年02月06日, 伏見稲荷大社, 平安時代前期の山城稲荷社の神階奉授の実態について、当時の朝廷の神祇信仰全般から検討を加えた論考。特に、天長4年(827)と貞観16年(874)の奉授の理由に注目し、稲荷社の地位向上には、前者から分かる祟を通じての祭神と天皇との直接的な関係と、後者で明らかとなった「私」の信仰の存在が、それぞれ作用したことを論じた。
「平安時代前中期における朝廷神祇制度と神仏関係の展開」, 加瀬直弥, 『國學院雑誌』, 115巻, 7号, p1, p12, 2014年07月15日, 國學院大學, 仏教組織に信仰された神祇が、神仏隔離の意識を持たれながらも、神社で朝廷祭祀を受ける理由を構造面から解いた。朝廷祭祀では、祭神との間に距離を置き、間に神職を介在させている。これを神社の立場から見ると、祭神と神職の間の儀礼による独自の関係構築が許容されていることになる。この構図が、朝廷祭祀の影響を神社にもたらさず、仏教的信仰形態を実践できた理由である。朝廷も祭神への恐れのため、それを尊重していたが、特に仏教組織の影響が強い神社では、氏神祭祀の基本に立ち返り、氏人をさらに介することで、神仏隔離を徹底しようと対応していた。
「神道史から見た古代の神観―神まつりの場に注目して―」, 加瀬直弥, 『月刊考古学ジャーナル』, 657号, p21, p25, 2014年06月30日, ニューサイエンス社, 古代の神まつりの背後に祟への恐れがあるとの指摘を踏まえ、広狭双方の視野から、神まつりの場を設定する状況を確認した。その結果、マクロの視点からだと、神まつりにふさわしい場は自然地形で決まる傾向の存在、ミクロの視点によれば、任意ではあるが、まずは神を恐れ、人間生活と隔絶させた神のための領域を設ける姿が理解できた。
「塩津港遺跡起請文札から考える神祇信仰の地域性と重層性」, 加瀬直弥, 『祭祀考古学』, 8号, p1, p10, 2014年06月30日, 祭祀考古学会, 滋賀県の塩津港遺跡は、平安時代の神社の実態に迫りうるものである。その中でも平成19(2007)年に発見された起請文札は、近江国内の神祇信仰を考える上できわめて注目される。起請文札で神の名を記した神文は、王城→国内→郡内→地域内、という階層によって秩序立てられているが、国内鎮守の筆頭は当時すでに二十二社に列していた日吉社であった。同社は、王城鎮守としてのそれのみが注目されがちだが、近江国内の信仰の中には、日吉社の位置付けが確立されていたことも重視される。もっとも、この国内の信仰は、9世紀半ばに確認される、朝廷による神祇信仰に強く影響を受けており、国司が主導する信仰の形成にも及んでいると考えられる。日吉社の位置付けは、後に一宮を建部社とする国司の中でも高いことが特筆され、一宮制とは相違する神祇信仰のかたちが存在している点を指摘できる。
「古代の社殿作りと神宝奉献の意義―奈良時代末期から平安時代前期を射程として―」, 加瀬直弥, 『明治聖徳記念学会紀要』, 復刊50号, p128, p138, 2013年11月03日, 明治聖徳記念学会
「奈良時代前後の神社修造の実情について」, 加瀬直弥, 『國學院雑誌』, 113巻, 11号, p33, p48, 2012年11月15日, 國學院大學
「古代神社と仏教組織―奈良・平安初期の神宮寺等の実態を踏まえて」, 加瀬直弥, 『神道宗教』, 228号, p4, p24, 2012年10月25日, 神道宗教学会
「古代朝廷と神宝との関係について」, 加瀬直弥, 『國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要』, 4号, p13, p24, 2012年03月31日, 國學院大學研究開発推進機構伝統文化リサーチセンター
「古代神祇祭祀制度の形成過程と宗像社」, 加瀬直弥, 『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告』, I, p397, p406, 2011年03月31日, 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議、福岡県企画・地域振興部総合政策課世界遺産登録推進室, 本稿のねらいは、律令神祇祭祀制度における宗像社の位置づけを把握することによって古代の沖ノ島・宗像社の歴史を明らかにすることである。そこでまず、当時の文献史料から見いだせる宗像社の顕著な特色のひとつが、鎮座する宗像郡が神郡であるということに注目し、神郡を擁する他社と、神まつりの実態などを比較した。その結果、律令神祇祭祀制度が形成される7世紀後半以前からの天皇との深い関わりが、以後の宗像社の特別な位置づけを定めていることが理解できた。その後、平安時代の最初期になると宗像社の神主をめぐる制度の変化がみられるが、そうした変化が、あくまで全国的な流れの中に位置づけられることと、変化した後もなお、自立した神まつりを行い得る状況にあったことが分かる。
「山に坐す古代の神の社の立地について」, 加瀬直弥, 『日本山岳文化学会論集』, 5号, p15, p21, 2007年11月20日, 日本山岳文化学会, 古代においても、山に神社が鎮座する例は一般的である。しかし、鏡などの依代に神が宿るという神祭りの形態を考えると、山の「どこ」に鎮座しているのが一般的なのか、再検討する必要がある。そこで、山における立地の記述が比較的詳細と見なせる古代の文献史料を整理し、「山麓」と「山の頂近く」に分類して、立地の決め手になった信仰の背景に迫ることにした。その結果、前者はきわめて生活に密着していたこと、後者については神意が働いていたことが明らかになった。さらに、神祭りを行う人々がどのような厳格な意識で神威を受け止めていたかという問題が、立地の決め手になることも浮き彫りになった。神社が状況に応じて遷っていることをも踏まえると、変転常なき人々の生活の中で、神と人との一定の「厳格さ」を保つ上で、山は神社を建てるのに適した立地ともいえる。
「平安時代後期の神職補任に関する一考察-神祇官移の発給から分かること-」, 加瀬直弥, 『國學院大學研究開発推進センター研究紀要』, 1号, p99, p114, 2007年03月31日, 國學院大學研究開発推進センター
「文献史料から見た古代神社の立地環境」, 加瀬直弥, 『神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成 研究報告』, II, p27, p39, 2007年01月15日, 文部科学省21世紀COEプログラム 國學院大學「神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成」, 神社と神祇信仰の実態を考えるため、古代神社の立地環境を文献史料等をもととして検討した。その結果、場の清浄化の問題に代表される、人間社会との隔離という点と、頻繁な祭祀実行の便宜という点との、ともすれば相反する問題を同時に解決することが、立地場所の決定に大きな影響を及ぼす要素であったことを裏付けることができた。
「平安中期・朝廷とかかわりの深い神社の修造-その制度的変遷-」, 加瀬直弥, 『政教研紀要』, 28号, p19, p62, 2006年03月27日, 国士舘大学日本政教研究所
「十・十一世紀前半の七道諸国における神社修造の実態-国司と神職との関わりを中心に-」, 加瀬直弥, 『神道宗教』, 199・200合併号, p89, p118, 2005年10月25日, 神道宗教学会
「平安中期の賀茂社司-愛宕郡寄進の背景-」, 加瀬直弥, 『日本文化と神道』, 1号, p1, p38, 2005年02月28日, 國學院大學21世紀COEプログラム研究センター
「中世宗像社に見る大宮司と神事の関わり」, 加瀬直弥, 『神道古典研究所紀要』, 10号, p21, p35, 2004年03月31日, 神道古典研究所
「中世住吉社の神事と神職に関する一視点」, 加瀬直弥, 『神道と日本文化』, 2号, p37, p52, 2004年03月15日, 國學院大學神道史学会
「筑前宗像社における大宮司設置について」, 加瀬直弥, 『國學院雑誌』, 104巻, 11号, p120, p129, 2003年11月15日, 國學院大學
「中世における殺生禁断と祭祀-鶴岡八幡宮における初期放生会の考察-」, 加瀬直弥, 『日本学研究』, 6号, p43, p68, 2003年06月01日, 金沢工業大学日本学研究所
「康和五年宣旨に見る神祇官と地方神社との関わり-一宮の成立を念頭に置きながら-」, 加瀬直弥, 『神道研究集録』, 17輯, p35, p49, 2003年03月20日, 國學院大學大学院文学研究科神道学専攻学生会
「『文徳実録』・『三代実録』に見られる神階奉授の意義」, 加瀬直弥, 『古代諸国神社神階制の研究』, p43, p65, 2002年08月01日, 岩田書院
「源頼朝における神宮施策」, 加瀬直弥, 『神道研究集録』, 16輯, p49, p71, 2002年03月20日, 國學院大學大学院文学研究科神道学専攻学生会
「鎌倉幕府神祇制度形成の一過程-一宮との関わりを端緒に-」, 加瀬直弥, 『國學院大學大学院紀要-文学研究科-』, 32輯, p67, p85, 2001年03月10日, 國學院大學大学院文学研究科
「九世紀後半に変化した朝廷神祇制度の意義」, 加瀬直弥, 『神道宗教』, 181号, p75, p87, 2001年01月25日, 神道宗教学会
報告1.中世前期の神社における仏教組織の動向(第1部,神仏関係の歴史的実像-史料から見た信仰の場と組織-,テーマセッション1,2005年度学術大会・テーマセッション記録), 加瀬 直弥, 宗教と社会, 12, 0, 190, 192, 2006年, 「宗教と社会」学会